江戸通長
時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
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生誕 | 宝徳2年(1450年) |
死没 | 明応3年11月12日(1494年12月9日)[1] |
別名 | 通泰[2]、通称:彦五郎[2] |
戒名 | 阜山道鶴[3]/妙雲[2] |
官位 | 但馬守、従五位下[2] |
氏族 | 常陸江戸氏 |
父母 | 父:江戸通秀(修理亮) |
兄弟 | (通房が父の場合)通秀、通長、通雅、 鳥子通治、鯉淵頼通、小野崎通栄、 枝川通弘、春秋通式、祐通、大山義成室[4] (通秀が父の場合)通長、通雅、男子(円通寺僧) |
妻 | 正室:小野崎義通娘[2] 妻:小野崎通栄娘[5] |
子 | 通雅[5]、通式[5]、獨放鈍聚和尚[5]、 佐竹義治妾[5] |
江戸 通長(えど みちなが)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。常陸江戸氏4代当主。常陸国水戸城主。
出自
[編集]常陸江戸氏は常陸の国人。藤原北家魚名流とされる藤原秀郷の後裔・川野辺氏の支流である那珂氏の傍流。
略歴
[編集]江戸通房あるいは通房の子・通秀(修理亮)の嫡男として誕生[3]。
寛正6年(1465年)、家督を継いだ[6]。当時の常陸守護・佐竹氏では、先々代の佐竹義人が一旦家督を譲った嫡男・義俊を廃して弟・実定を守護にした事から内紛が生じていた。通長は実定を支持していたが、実定の死後に義俊が常陸太田城に復帰して、実定の嫡男・義定は水戸城の通長を頼った。ところが、義人の死後の文明9年(1477年)に義俊方の刺客が水戸城を襲撃して義定を暗殺すると、通長はこれに驚いて義俊に降伏した。
その後は佐竹氏傘下として文明13年(1481年)には小鶴原の戦いで小田成治を破り、続いて鹿島郡に進出するなど、常陸南東部に勢力を広げた。ところが、延徳2年(1490年)に山入義藤が佐竹氏に叛旗を翻すとこれに加担した。
明応3年(1494年)、病没。通長には子が無かったため[7]、家督は弟・通雅が継いだ。
脚注
[編集]- ^ 『史料綜覧』第8編之909 12頁
- ^ a b c d e 『常陸三家譜』
- ^ a b 『新編常陸国誌』
- ^ 『常陸史料』
- ^ a b c d e 『江戸氏譜』
- ^ 『史料綜覧』第7編之908 185頁
- ^ 『江戸氏譜』には子として通雅、通式、獨放鈍聚和尚、佐竹義治妾の記載がある。
出典
[編集]- 『新編常陸国誌』
- 『江戸氏譜』
- 『常陸三家譜』
- 『常陸史料』