池田仲建
時代 | 江戸時代後期(幕末) |
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生誕 | 天保12年10月18日(1841年11月30日) |
死没 | 元治元年6月27日(1864年7月30日) |
改名 | 裕之進(幼名)、仲立(初名)→仲建 |
戒名 | 良徳院仁山義桁 |
墓所 | 鳥取県鳥取市国府町奥谷の池田家墓所 |
官位 | 従五位下、左近将監、伊勢守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 因幡国鹿奴藩主 |
氏族 | 池田氏 |
父母 | 父:池田仲律、母:清水氏 |
兄弟 | 慶行、仲建、整子(池田慶栄室) 詮子(池田源室)、千世子(津軽承叙室) |
妻 | 正室:池田仲諟の娘・映子 |
子 | 養子:徳澄 |
池田 仲建(いけだ なかたつ)は、因幡鹿奴藩(鳥取東館新田藩)の第9代藩主。
生涯
[編集]天保12年(1841年)10月18日、第8代藩主・池田仲律の三男として江戸で生まれる。嘉永3年(1850年)に父が死去したため家督を継いだ。安政2年(1855年)12月16日、従五位下・左近将監に叙任される。安政4年(1857年)9月に伊勢守に遷任された。
幕末期は本家の鳥取藩の補佐に尽力し、幕府に対する公役においても功績を挙げたため、元治元年(1864年)5月には幕府から従五位上に奏請されるが固辞した。6月、本家の鳥取藩主・池田慶徳と京都出兵をめぐって対立する。仲建は鳥取藩の藩財政が窮乏し、諸外国に対する防備もあるために出兵に反対したが、慶徳は受け入れなかった。6月27日の深夜、仲建は諫止するために自害して果てた。享年24。