池田政和 (生坂藩主)
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政4年9月11日(1821年10月6日) |
死没 | 安政5年2月4日(1858年3月18日) |
改名 | 久五郎(幼名)→政和 |
墓所 | 岡山県岡山市中区小橋町の国清寺 |
官位 | 従五位下、山城守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶、家定 |
藩 | 備中生坂藩主 |
氏族 | 池田氏 |
父母 | 父:池田喜長、養父:池田政範 |
兄弟 | 喜通、政和 |
妻 | 正室:青雲院(池田政範養女・上杉斉定娘) |
子 | 長男、政礼、女(土倉某室) |
池田 政和(いけだ まさかず)は、江戸時代後期の大名。備中国生坂藩7代藩主。
略伝
[編集]文政4年(1821年)、一族で6000石を領した大身旗本・池田喜長の次男として誕生した。
生坂藩6代藩主・池田政範には2人の女児しかなかったため、養嗣子として迎えられ、天保10年(1839年)正月23日に政範の隠居によって跡を継いだ。安政元年(1854年)、本家の岡山藩8代藩主・池田慶政と共に房総半島の警備を務めた。安政2年(1855年)12月27日、家督を次男・政礼に譲って隠居した。
安政5年(1858年)2月4日、死去。享年38。