河波荒次郎
河波 荒次郎(かわなみ あらじろう、1865年10月7日(慶応元年8月18日[1])- 1932年(昭和7年)2月21日[2][3])は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員。「玄洋社式の豪傑」と呼ばれた[4]。
経歴
[編集]筑前国御笠郡山田村、のちの福岡県筑紫郡大野村(現大野城市)で、地主・河波宗五郎の長男として生まれる[1][4][5][6]。1885年(明治18年)家督を相続した[6]。1888年(明治21年)東京専門学校邦語政治科を卒業した[2][3][4][5][6]。農業を営み、玄洋社社員であった[3][4][6]。
大野村会議員、筑紫郡会議員、同議長、雑餉隈郵便電信局長(現博多南郵便局)などを務め、1903年(明治36年)福岡県会議員に選出された[2][3][4][5][7]。1905年(明治38年)九州日報社副社長に就任した[3]。
1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙に福岡県郡部から憲政会所属で出馬して当選[2][3][5]。その後、第15回、第17回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算3期務めた[2][5]。この間、憲政会福岡県支部幹事長となる[4]。
かなりの資産を保有していたが、財産の全てを用いて政治活動を行った[4]。