津野常
津野常 つの じょう | |
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生年月日 | 1848年7月12日 |
出生地 | 日本 日向国児湯郡上江村 (現・宮崎県児湯郡高鍋町) |
没年月日 | 1902年7月18日(54歳没) |
出身校 | 明倫堂 |
所属政党 | (自由党→) (無所属→) 憲政党 |
選挙区 | 宮崎1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1898年3月15日 - 1902年7月18日 |
宮崎県会議長 | |
津野 常(つの じょう[1]、1848年7月12日(嘉永元年6月12日[2])- 1902年(明治35年)7月18日[3])は、幕末の高鍋藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員、宮崎県会議長。
経歴
[編集]日向国児湯郡上江村(高鍋県、美々津県、宮崎県、鹿児島県を経て宮崎県[3]児湯郡上江村[2]、現高鍋町[4])で生まれる。藩校・明倫堂で漢学を修め[2][3][4]、稽古所で剣術、柔術を錬磨した[2]。その後、美々津県英式楽隊を講習して高鍋藩楽隊長に就任し[2][3][4]、さらに同藩民政局出仕を務めた[2][3][4]。廃藩置県後、美々津県、宮崎県、鹿児島県で勤務した[2][4]。
1881年(明治14年)3月、鹿児島県会議員に選出され[5]、分県運動に加わり[5]、1883年(明治16年)7月、宮崎県会議員に選出され[5]、同常置委員、同副議長、同議長を務めた[2][3][4]。自由民権運動に加わり、大同団結運動を推進した[2]。
また実業界では、宮崎県農工銀行監査役、宮崎新報社長、高鍋蚕業改良会社社長、高鍋製糸取締役などを務めた[3][4]。
1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(宮崎県第1区、無所属)で初当選し[2][6]、次の第6回総選挙でも再選され[2][6]、衆議院議員に連続2期在任した[3]。議員在任中の1902年7月に死去した[7]。
国政選挙歴
[編集]- 第2回衆議院議員総選挙(宮崎県第1区、1892年2月、自由党)次点落選[4][8]
- 第5回衆議院議員総選挙(宮崎県第1区、1898年3月、無所属)当選[4][6]
- 第6回衆議院議員総選挙(宮崎県第1区、1898年8月、憲政党)当選[4][6]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 宮崎県政外史編纂委員会編『宮崎県政外史』宮崎県政外史刊行会、1967年。
- 『激動の日本政治史 - 明治・大正・昭和歴代国会議員史録(下巻)』阿坂書房、1979年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。