海風型駆逐艦
海風型駆逐艦 | |
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基本情報 | |
種別 | 一等駆逐艦[2] |
建造所 | 舞鶴海軍工廠(海風) 三菱長崎造船所(山風) |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 海風・山風[2] |
前級 | 神風型駆逐艦 (初代) |
次級 | 浦風型駆逐艦 |
要目 (計画竣工時) | |
基準排水量 | 1,030トン[3] |
常備排水量 | 1,150トン[4] 山風完成 1,207.892トン[5] |
全長 | 98.49m[6] |
水線長 | 97.84m[3][6] |
垂線間長 | 310 ft 0 in (94.49 m)[4] |
最大幅 | 28 ft 0+13⁄16 in (8.56 m)[4] |
深さ | 5.26m[6] |
吃水 | 9 ft 0 in (2.74 m)[4] |
ボイラー | イ号艦本式缶 混焼缶6基、重油専焼缶2基[7] |
主機 | パーソンズ式直結タービン3軸併結[4][8] |
推進器 | 3軸[4] x 700rpm[6] |
出力 | 計画 20,500馬力[4] 海風 27,088馬力[9] 山風 28,921馬力[10] |
速力 | 計画 33ノット[4] 海風 33.03ノット[9] 山風 34.61ノット[10] |
航続距離 | 2,700カイリ / 15ノット[11] |
燃料 | 海風:重油218トン、石炭165トン[8] 山風:重油178トン、石炭250トン[8] |
乗員 | 竣工時定員 139名[12] 1920年時 141名[8] |
兵装 | 40口径四一式12cm単装砲 2門[8] 40口径四一式8cm単装砲 5門[8] 45cm単装水上発射管 3基[11] (竣工直後に四四式45cm連装水上発射管2基4門に換装)[11] |
搭載艇 | 1920年海風 4隻、山風 5隻[8] |
トンは英トン |
海風型駆逐艦(うみかぜかたくちくかん)は、日本海軍の一等駆逐艦[2][13]。
概要
[編集]イギリス海軍のトライバル級駆逐艦を参考にして建造された[14]初の1,000トン級駆逐艦[15]。蒸気タービンを搭載した初の日本海軍駆逐艦であり、33ノットの高速を発揮した[11]が2隻が建造されたに留まった[13][16]。
計画
[編集]日露戦争開戦直後の1904年(明治37年)3月に臨時軍事費特別会計法が公布され[17]、同年4月7日に船体、機関の消耗の激しい駆逐艦の製造費8,000,000円が勅裁された[18]が、この予算で駆逐艦は建造されなかった。この臨時軍事費は1907年(明治40年)3月31日までで、残額は一般会計へ移って[17]「艦艇補足費(款)」が設定され[19]、この予算により「山風」が建造された[20]。 一方日露戦争終結後の1906年(明治39年)9月28日に海軍大臣より今後の軍備計画として「海軍整備ノ議」が提出され[21]、その中に排水量約900トンの大型駆逐艦6隻の計画が含まれていた[22]。この予算として明治40年度から明治47年度支出の「補充艦艇費(款)」が新たに設定され、「海風」はこの予算で建造された[23]。 起工は海風が1909年(明治42年)、山風がその翌年となった[24]。1910年(明治43年)5月13日に新たな軍備計画として「海軍軍備充実ノ議」が提出され、明治44年(1911年)度以降は、これまでの予算(艦艇補足費、補充艦艇費など)を含めて「軍備補充費(款)、軍艦製造費(項)」に纏められ、計画が整理された[23]。2隻はそのまま建造が続行され[25]、同年9月に海風が、翌10月に山風がそれぞれ竣工した[24]。なお製造番号は海風が「伊号大駆逐艦」、山風が「甲号大駆逐艦」とされていた[24][26]。
艦型
[編集]基本計画番号F9[26]。海風型は当時の日本海軍駆逐艦が排水量380トン前後だったところを一挙に排水量1,000トン超の駆逐艦として誕生した[15]。実験的な試みの多くある艦で[27]、缶(ボイラー)はイ号艦本式缶8基を搭載した[28]。最前部(1番)と最後部(8番)が重油専焼缶で1基を1室に収め、中央の2番から7番は混焼缶2基ずつを1組として1室に収め、焚き口を向かい合わせに設置した[28]。当初は8基全て重油専焼とする計画だったが、日本での産出量が少ない事や将来の価格高騰を懸念して、6基を重油石炭混焼缶に改めた[29][30]。
また日本海軍駆逐艦で初めて主機にタービンを搭載した[11]。タービンは三菱を通じて英パーソンズ社から輸入し[14]、中央軸が高圧タービン、左右軸がより大型の低圧タービンを直結式とした3軸艦だった[29]。また高圧巡航タービンと中圧巡航タービンを各1基装備し、高圧巡航タービンは左舷軸に、中圧のそれは右舷軸に直結された[29][31]。なお将来を見越して2隻の製造予算の予備費を回してパーソンズ式タービンの製造権を購入している[32]。出力は計画では20,500馬力の予定のところを[14]山風は28,921馬力となり、速力34.61ノット(計画33ノット)を出している[10][注釈 1]。
兵装は4.7インチ(正12cm)砲2門、3インチ(7.62cm)砲5門を搭載した[8]。(日本海軍では3インチ砲をのちに8cm砲と表記しているので以下ではそれぞれを12cm砲、8cm砲と記述する)。当初は4インチ(約10.2cm)砲搭載の計画だったが、途中で12cm砲搭載に改められ[33]、12cm砲はその後長く日本海軍駆逐艦の標準砲になった[14]。また海風は竣工前、後部マストの後方に12cm砲が、前方に8cm砲が搭載されていた[34]。竣工前の「海風」での試験では高速運転時の船体の振動が激しく、12cm砲の照準が不可能だった[35]。そのため後部12cm砲は5番8cm砲の旧位置(140番フレーム)の1フレーム後方に、5番8cm砲は12cm砲の旧位置(160番フレーム)へ移動された[36]。 時期については、「山風」は砲、発射管などを搭載せずに竣工し佐世保海軍工廠で搭載する予定だったので[37]、その佐世保で竣工直後に[38]、「海風」は竣工から約1年後に役務に差し支えない時期に、と訓令が出ている[39]。ただし、後部マスト後方に12cm砲を搭載する(変更前の)写真は見つかっていない[40]。
また日本で初めて連装魚雷発射管(口径18インチ=45.7cm)を搭載した[14]。連装発射管の開発が間に合わず竣工時には単装を搭載し竣工直後に連装に交換された、と言われている[11][注釈 2]。
竣工後の艦型変化として、1番煙突の高さを増し、また前部マストに新たに見張り所を設けている[41]。また1919年(大正8年)頃、5番(最後部)8cm砲を撤去して艦尾旗竿を傾斜した形状に改め、一号機雷敷設軌条や投下施設等を設置した[42]。
運用・その他
[編集]日露戦争後に国民の誰もが知る日本海軍の代表艦として「海風」「山風」があったという[15]。
第一次世界大戦では第一南遣支隊所属で南洋群島方面攻略に参加した[43]他、1916年(大正5年)に中国方面への警備活動に従事している[44][45]。またシベリア出兵では沿海州沿岸警備に従事した[43]。
1930年(昭和5年)に掃海艇へ転籍し、魚雷発射管の全て、艦後部に搭載の12cm砲1門、8cm砲1門(1919年頃撤去済みとも[42])を撤去し後甲板を掃海作業甲板とした[46]。2隻とも1936年(昭和11年)に除籍された[46]。
同型艦
[編集]海風(うみかぜ)
[編集]- 1907年(明治40年)12月20日 - 製造訓令[47]。仮称艦名、伊号大駆逐艦。
- 1909年(明治42年)2月2日 - 命名[48]。同年11月23日舞鶴海軍工廠で起工[49][13]。
- 1910年(明治43年)10月10日 - 進水[49][50]。本艦進水式には皇太子(のち大正天皇)が臨席した[51]。同日附で駆逐艦に類別[52]。
- 1911年(明治44年)9月28日 - 竣工[49][13]。
- 1912年(大正元年)8月28日 - 駆逐艦に等級が附与され、本艦の等級は一等とされる[53]。
- 第一次世界大戦では第一南遣支隊所属で南洋群島攻略に参加[43]。
- 1918年(大正7年)のシベリア出兵では沿海州沿岸警備に従事[43]。
- 1926年(大正15年)11月29日 - 艦艇類別等級表に「艦型」(艦級、クラスに相当)が定められ、本艦の艦型は海風型とされる[2]。
- 1926年12月1日から[54]1928年(昭和3年)12月10日まで鎮海要港部所属[55]、この間主に朝鮮半島で活動する[44]。
- 1930年(昭和5年)6月1日 - 駆逐艦籍を除かれ[44]掃海艇に類別変更[56]、「第七掃海艇」(2代)に改称[43]。
- 1936年(昭和11年)4月1日 - 除籍[43]。
山風(やまかぜ)
[編集]- 1909年8月28日 - 三菱合資会社と製造契約[57]、仮称艦名、甲号大駆逐艦。同年11月15日命名[58]。
- 1910年6月1日 - 三菱長崎造船所で起工[49][59]。
- 1911年1月21日 - 進水[49][60]。
- 同年10月21日 - 竣工[61][注釈 3]、同日駆逐艦に類別される[62]。
- 1912年8月28日 - 駆逐艦に等級が附与され、本艦の等級は一等とされる[53]。
- 第一次世界大戦では第一南遣支隊所属で南洋群島方面攻略に参加[43]。
- 1918年のシベリア出兵では沿海州沿岸警備に従事[43]。
- 1926年11月29日 - 艦艇類別等級表に「艦型」が定められ、本艦の艦型は海風型とされる[2]。
- 1926年12月1日から[54]1928年12月10日まで鎮海要港部所属[55]、この間主に朝鮮半島で活動する[45]。
- 1930年6月1日 - 駆逐艦籍を除かれ[45]掃海艇に類別変更[56]、「第八掃海艇」(2代)と改称[43]。
- 1936年4月1日 - 除籍[43]。
駆逐隊・掃海隊の変遷
[編集]海風型は除籍までのほとんどの期間を駆逐隊・掃海隊で過ごしている。ただし、同型艦2隻であるため、4隻が定員の一個駆逐隊を編成するために、頻繁に他形式の駆逐艦と混成されている。
第十六駆逐隊→第二駆逐隊→第三十二駆逐隊→第十七駆逐隊→第六掃海隊
[編集]横須賀鎮守府籍の海風・山風で編成。大正7年4月1日より、横鎮の駆逐隊は第一〜第十の番号に揃えられたため、神風型駆逐艦からなる先代の第二駆逐隊が第五駆逐隊にスライドし、二代目の第二駆逐隊となる。大正7年4月30日をもって海風型は駆逐隊から離脱したが、わずか3ヶ月で第二駆逐隊へ復帰。後任の楢型駆逐艦楢・榎と合流して二等級二種の混成駆逐隊となる。大正7年11月に舞鶴鎮守府へ転出し、第三十二駆逐隊となった。大正11年12月1日に呉鎮守府へ転出し、桜型駆逐艦、樺型駆逐艦からなる先代の第十七駆逐隊が大正7年4月1日に第二十一駆逐隊にスライドして以来、二代目の第十七駆逐隊となる。昭和5年6月1日に駆逐艦より掃海艇に転じたため、4隻ともそろって第六掃海隊に転じた。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の艦歴は各艦の項目を参照。
- 1912年(明治45年)6月25日:海風・山風で編成。横須賀鎮守府横須賀水雷団[63]。
- 1912年(大正元年)8月15日:第一艦隊[64]。
- 1912年(大正元年)12月1日:横須賀鎮守府横須賀水雷団[65]。
- 1913年(大正2年)3月24日:横須賀防備隊。
- 1913年(大正2年)8月10日:第一艦隊[66]。
- 1913年(大正2年)11月15日:横須賀鎮守府横須賀防備隊[67]。
- 1914年(大正3年)8月10日:第一艦隊第一水雷戦隊[68]。
- 1914年(大正3年)9月14日:巡洋戦艦鞍馬らと第一南遣枝隊を編成[69]。南洋諸島で行動。
- 1915年(大正4年)2月1日:第一艦隊。
- 1915年(大正4年)2月5日:第一水雷戦隊[70]。
- 1915年(大正4年)3月5日:沼津御用邸沖合に到着(第16駆逐隊司令桑島省三、山風艦長角田貫三、海風艦長小泉親治)[71]。
- 1915年(大正4年)大正4年3月6日:裕仁親王(昭和天皇、当時14歳)は山風を御召艦(供奉艦海風)として三保の松原に向かう(同日、御用邸帰還)[72]。
- 1915年(大正4年)3月7日:裕仁親王は山風に乗艦して駿河湾を遊覧、自ら魚雷発射を試みる[73]。
- 1915年(大正4年)12月1日:横須賀防備隊より浦風を編入[74]。
- 1915年(大正4年)12月13日:第二艦隊第二水雷戦隊[75]。
- 1917年(大正6年)4月1日:浦風、横須賀防備隊に転出[76]。横須賀鎮守府横須賀防備隊[77]。
- 1917年(大正6年)12月1日:横須賀鎮守府予備艦。
- 1918年(大正7年)4月1日:駆逐隊番号を変更、第二駆逐隊に改称[78]。
- 1918年(大正7年)4月30日:海風、山風は駆逐隊より離脱。同日、竣工した楢、榎が編入[79]。
- 1918年(大正7年)8月1日:海風、山風を再度編入[80]。
- 1918年(大正7年)11月2日:舞鶴鎮守府に転出、第三十二駆逐隊に改称[81]。第一艦隊第一水雷戦隊[75]。
- 1920年(大正9年)3月24日:九州地方行啓のため皇太子(昭和天皇、当時19歳)は神戸港より戦艦香取に乗艦[82]、第三十二駆逐隊は供奉艦(鹿島、海風、山風、榎、楢)として同行する[83]。
- 1920年(大正9年)11月5日:舞鶴鎮守府部隊[84]。
- 1922年(大正11年)12月1日:呉鎮守府に転出。第十七駆逐隊に改称[85]。呉鎮守府予備艦。
- 1923年(大正12年)12月1日:舞鶴要港部部隊[86]。
- 1925年(大正14年)12月1日:呉鎮守府予備艦。
- 1926年(大正15年)12月1日:鎮海要港部部隊[54]。
- 1927年(昭和2年)12月1日:舞鶴要港部に派遣。
- 1928年(昭和3年)8月1日:鎮海要港部に派遣。
- 1928年(昭和3年)12月10日:呉鎮守府予備艦。
- 1930年(昭和5年)6月1日:全艦、掃海艇に類別変更。第十七駆逐隊を解隊し[87]、第七号(旧海風)・第八号(旧山風)・第九号(旧楢)・第十号(旧榎)で第六掃海隊を編成。呉鎮守府呉防備隊所属[88]。
- 1936年(昭和11年)4月1日:第六掃海隊解隊[89]。第七号・第八号は除籍、第九号・第十号は雑役船に編入。
参考文献
[編集]- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 「海軍軍備沿革」、海軍大臣官房、1921年10月。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年
- 宮内庁 編『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74402-2。
- 『世界の艦船増刊第34集 日本駆逐艦史』、海人社、1992年7月。
- 『世界の艦船増刊第107集 日本駆逐艦史』、海人社、2012年12月。
- 造船協会『日本近世造船史 大正時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1935年12月)。
- (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 日本舶用機関史編集委員会 編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』(光人社、1993年)ISBN 4-7698-0611-6
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 福田啓二 編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』(原書房、1969年)ISBN 4-562-01873-9
- 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 別巻1 海軍艦艇図面集 I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0541-1
- 艦船模型スペシャル No.17 日本海軍 駆逐艦の系譜 1
- 『官報』
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『「公文備考艦船3 軍艦鞍馬製造 巻19」/製造命令及予算等進水式関係(3))』。Ref.C07090130300。
- 『「公文備考艦船4 軍艦鳥羽駆逐艦海風山風製造 巻20」/製造命令及予算(1)』。Ref.C07090131700。
- 『「公文備考艦船4 軍艦鳥羽駆逐艦海風山風製造 巻20」/製造命令及予算(2)』。Ref.C07090131800。
- 『「公文備考艦船4 軍艦鳥羽駆逐艦海風山風製造 巻20」/製造命令及予算(3)』。Ref.C07090131900。
- 『「公文備考艦船4 軍艦鳥羽駆逐艦海風山風製造 巻20」/製造命令及予算(4)』。Ref.C07090132000。
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- 『明治45年~大正1年 公文備考 巻33 艦船7/砲位変更』。Ref.C08020047000。
- 『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日/除籍艦艇/駆逐艦(3)』。Ref.C14010006100。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ #日本駆逐艦物語pp.67-68では『山風は全力公試中に計画定格出力(二万五〇〇馬力)を遙かに超えた三万軸馬力、そして速力はじつに三五・〇ノットにたっし、』としている。
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(3)画像49-58『驅逐艦山風兵装豫算調書』では連装発射管としており、#M44公文備考19(鞍馬)/製造命令及予算等進水式関係(3)画像21によると伊号大駆逐艦(海風)も連装発射管を予定している。
- ^ #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1068-1069、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲では明治44年12月21日となっている。
出典
[編集]- ^ #日本駆逐艦史2012p.45上写真の解説
- ^ a b c d e #海軍制度沿革8(1971)pp.88-92『大正十五年十一月二十九日(内令二三八) 艦艇類別等級別表ノ通定ム(別表省略)』| 驅逐艦 | 一等 | 海風型 | 海風、山風 |
- ^ a b #海軍造船技術概要p.451
- ^ a b c d e f g h #日本近世造船史(大正)p.71
- ^ #軍艦基本計画資料Sheet59
- ^ a b c d #昭和造船史1pp.788-789『6.駆逐艦及び水雷艇要目表』
- ^ #帝国海軍機関史別冊、表13
- ^ a b c d e f g h #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その二「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その二 駆逐艦」
- ^ a b #帝国海軍機関史下巻p.484
- ^ a b c #帝国海軍機関史下巻p.485
- ^ a b c d e f #日本駆逐艦史1992p.34
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.505、明治43年10月10日(内令183)『海軍定員令別表中ヘ附表ノ通驅逐艦定員表其四ヲ追加セラル | 艦第二十一表ノ二 | 驅逐艦定員表 其四 | 驅逐艦名 | 海風 | (以下略) |』將校同相當官8人、兵曹長同相當官、准士官3人、下士37人、卒91人。同書p.508、明治44年7月6日(内令116)『海軍定員令別表驅逐艦定員表其四中「海風」ノ次ニ「山風」ヲ追加セラル』
- ^ a b c d #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ94(原本150頁)『海風型〔二隻〕 艦種一等驅逐艦 艦名考風の種類に採る。以下風に因める驅逐艦總て然り。海風(うみかぜ) 艦歴大正3-9年役從軍:南洋群島占領に参加、昭和5年除籍。山風(やまかぜ) 艦歴大正3-9年役從軍:南洋群島占領に参加、昭和5年除籍。 ―要目― 長94.49米/幅8.56米/吃2.74米/排水量1,030噸/機關 パーソンタルビン3軸 艦本式罐8/馬力 20,500/速力33/乗組人員140/船材 銅/兵装 12糎砲2/機砲5/發射管4/探照燈2|海風 (起工)明治42-11-23 (進水)明治43-10-10 (竣工)44-9-28 (建造所)舞鶴工廠/山風 (起工)明治43-6-1 (進水)明治44-1-21 (竣工)44-10-21 (建造所)三菱造船所』
- ^ a b c d e #海軍造船技術概要p.380
- ^ a b c #日本駆逐艦物語p.67
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ238(原本84頁)『一、重油専焼の第一艦――明治四十二年(一九〇九)舞鶴にて起工の驅逐艦「海風」に重油専焼罐を採用す』
- ^ a b #海軍軍備沿革p.119
- ^ #海軍軍備沿革p.120
- ^ #海軍軍備沿革p.128
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.223
- ^ #海軍軍備沿革p.124
- ^ #海軍軍備沿革p.125
- ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.224-225
- ^ a b c #戦史叢書31海軍軍戦備1p.237
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』(朝雲新聞社、1969年)p232による。
- ^ a b #日本駆逐艦物語p.284
- ^ #日本駆逐艦物語p.68
- ^ a b #帝国海軍機関史下巻pp.483-484
- ^ a b c #帝国海軍機関史下巻p.483
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(1)画像49-53、艦本第1554号『四十二年三月31日 艦政本部長 舞工廠長宛 駆逐艦海風ノ件』
- ^ 阿部安雄「技術面から見た日本駆逐艦の発達 2 機関」#日本駆逐艦史1992p.167
- ^ #帝国海軍機関史下巻pp.454-455
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(1)画像10-11、官房第2882号、7月2日発付済『訓令案 明治四十一年七月二日 海軍大臣 舞鎮司令長官宛 伊号大驅逐艦搭載砲中改正ノ件 補充艦艇費支弁伊号大驅逐艦製造訓令ノ要領書及図面中四吋砲ヲ四、七吋砲ニ改め9其弾数ハ十二斤砲トモ通シテ各壱門ニ付百五拾発トス 右訓令ス(終) 備考(以下略)』
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(4)画像23、明治44年10月16日附艦本三第三八九ノ二、駆逐艦山風砲座ニ関スル件(画像15-22)に附属の艦尾艦内側面図。
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(4)画像15-16、明治44年10月16日附艦本三第三八九ノ二、駆逐艦山風砲座ニ関スル件(画像15-22)中の一.目的『髙速力回転ニ依テ生スル舩体ノ振動ニ基キ海風後部四、七伊砲ノ照準不可能ノ故ヲ以テ改造豫定ノ如ク前方ニ移動セハ照準ニ如何ナル影響ヲ生スルヤ』。
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(4)画像28-31、明治44年11月27日附佐鎮第1097号の2『駆逐艦山風三吋及四吋七砲位置改正ノ件』に添付の工事方案。
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(3)画像49-58『驅逐艦山風兵装豫算調書 佐世保海軍工廠』
- ^ #M44公文備考20/海風山風/製造命令及予算(4)画像13-14、官房第3844号『明治四十四年十一月八日 海軍大臣 佐鎮司令長官アテ 驅逐艦山風後部備砲位置改正ノ件 驅逐艦山風後部四吋七砲位置別紙図面ノ通リ改正工事施工セシムヘシ 但入費ハ本艦製造費配布スヘキニ付豫算取調報告スヘシ 右訓令ス(別図壱葉添) (終)』
- ^ #T1公文備考33/砲位変更画像2-3、官房第560号『大正元年九月十九日 海軍大臣 横鎮司令長官アテ 驅逐艦海風備砲位置変更ノ件 驅逐艦海風後部四吋七砲及五番三吋砲ヲ別紙図面ノ通リ彼是換装セシムヘシ 但成ルヘク役務ニ差支ナキ時期ニ於テ施行ヲ要ス 右訓令ス(別図壱葉添) (終)』
- ^ #日本駆逐艦史2012p.44下写真の解説
- ^ #日本駆逐艦史2012p.45下写真の解説
- ^ a b #日本駆逐艦史1992p.37下写真の解説
- ^ a b c d e f g h i j 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.12
- ^ a b c #S9-12-31恩給叙勲年加算調査(下)/除籍艦艇/駆逐艦(3)画像5-6
- ^ a b c #S9-12-31恩給叙勲年加算調査(下)/除籍艦艇/駆逐艦(3)画像6-7
- ^ a b #日本駆逐艦物語p.69
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(1)画像2-4
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.372、達第14号『舞鶴海軍工廠ニ於テ製造スヘキ伊號大驅逐艦ヲ海風(ウミカゼ)ト命名ス』
- ^ a b c d e #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1068-1069、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)進水式関係画像5-6
- ^ 明治43年10月12日官報第8194号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ16『○東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨日午前六時十五分御旅館圓満員御出門同六時四十五分馬場停車場御發車舞鶴軍港ヘ行啓驅逐艦海風進水式上ニ臨マセラレ午後零時四十分舞鶴海兵團假設停車場御發車同五時三十分還御アラセラレタリ』
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.71、達第134号『艦艇類別等級別表中驅逐艦ノ欄内「綾波」ノ次ニ「海風」ヲ加フ』
- ^ a b #海軍制度沿革8(1971)pp.72-74、達第12号『艦艇類別等級別表ノ通リ改正ス』
- ^ a b c #海軍制度沿革4-1(1971)pp.87-88、内令265
- ^ a b #海軍制度沿革4-1(1971)p.92、内令350
- ^ a b #海軍制度沿革8(1971)p.94、内令第113号
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(2)画像21
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.372、達第123号『三菱長崎造船所ニ於テ製造スヘキ甲號大驅逐艦ヲ山風(ヤマカゼ)ト命名ス』
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(4)画像27、明治43年6月1日電報訳『山風本日起工ス(了)』
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)進水式関係画像27、明治44年1月21日電報訳『駆逐艦山風無事進水セリ』
- ^ #M44公文備考20/(海風山風)製造命令及予算(4)画像6、明治44年10月21日山風機密第38号『山風領収ノ件 別紙写ノ通リ引渡領収證交換ノ上受領ヲ了シ候 右報告ス (別紙二通添) (終)』
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.72、達第114号『艦艇類別等級別表中驅逐艦ノ欄内「海風」ノ次ニ「山風」ヲ加フ』
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.69、内令124
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.24、内令7
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.24、内令78
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.24、内令129
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.24、内令168
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.25、内令120
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.26
- ^ 第16駆逐隊
- ^ #昭和天皇実録第二100頁『(大正四年三月)五日 金曜日 午後一時、駆逐艦山風及び海風が沼津御用邸沖に来航し投錨する。ついで第十六駆逐隊司令桑島省三・山風艦長角田貫三・海風艦長小泉親治参邸につき、謁を賜う。その後、庭前の石垣上より、山風・海風の様子を御覧になる。』
- ^ #昭和天皇実録第二100-101頁『(大正四年三月)六日 土曜日(駆逐艦山風に御乗艦 三保松原)』
- ^ #昭和天皇実録第二101頁『(大正四年三月)七日 日曜日(駿河湾航行・大瀬三崎に御上陸)山風乗艦(供奉海風)沼津発大瀬岬上陸・帰艦後、山風にて自ら魚雷発射を試みる』
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.72、内令30
- ^ a b #海軍制度沿革4-1(1971)p.27、内令312
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.74、内令74
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.29、内令77
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.76、内令95
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.76、内令143
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.76、内令247
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.76、内令362
- ^ 大正9年3月26日官報第2292号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ一昨日二十四日午前六時四十分二條離宮御出門同七時京都驛御發車銅八時五十五分神戸驛御著車御乗艦同十一時神戸港御發艦アラセラレタリ』
- ^ #昭和天皇実録第二552頁『(大正九年三月)二十四日 水曜日(神戸御出港)』
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.34、内令426
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.82、内令433
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.84、内令422
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.93、内令116『呉鎮ノ部第十七驅逐隊ノ項ヲ削ル』
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.159、内令118
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.160、内令111『第六掃海隊ノ項ヲ削ル』