源師賢
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 長元8年(1035年) |
死没 | 永保元年7月2日(1081年8月9日) |
別名 | 号:藤津弁 |
官位 | 正四位下、左中弁 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 |
氏族 | 宇多源氏 |
父母 | 父:源資通、母:源頼光の娘 |
兄弟 | 師賢、政長、成仲、師俊、為忠、源経成室 |
子 | 寛助、藤原師実室? |
源 師賢(みなもと の もろかた)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。宇多源氏、参議・源資通の長男[1]。官位は正四位下・左中弁。
経歴
[編集]叙爵後、少納言を経て康平6年(1063年)に後冷泉天皇の五位蔵人に補任される(当時の位階は正五位下)。同年12月には右少弁に任ぜられ、以後弁官を歴任する。治暦4年(1068年)4月に後冷泉天皇が崩御して後三条天皇が即位するが、引き続き五位蔵人に補せられ、同年12月には左少弁に昇任した。
白河朝でも、承保2年(1075年)従四位下・権右中弁、承保3年(1076年)従四位上、承保4年(1077年)正四位下・権左中弁、承暦4年(1080年)左中弁と弁官を務めながら昇進を重ねる。
同年末には蔵人頭に任ぜられるが、約7ヶ月後の永保元年(1081年)7月2日卒去。享年47。最終官位は蔵人頭左中弁正四位下兼木工頭修理右宮城使。
人物
[編集]弟・政長と共に宇多源氏の家業である管弦の道を継いで、和琴の名手として知られた。また、歌人として名を挙げ、『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に16首が入る[2]。
官歴
[編集]『弁官補任』および『蔵人補任』による。
- 時期不明:正五位下・少納言
- 康平6年(1063年) 4月17日:五位蔵人。12月8日:右少弁
- 治暦4年(1068年) 4月19日:五位蔵人。12月17日:左少弁、兼木工頭
- 延久3年(1071年) 4月26日:兼斎院長官
- 延久4年(1072年) 4月:辞斎院長官
- 延久6年(1074年) 正月28日:兼安芸権介
- 承保2年(1075年) 6月13日:権右中弁。12月15日:従四位下(造宮賞)
- 承保3年(1076年) 正月22日:従四位上(先朝行幸平野行事賞)
- 承保4年(1077年) 正月6日:正四位下(平野行事賞)。10月3日:権左中弁
- 承暦4年(1080年) 8月22日:左中弁。12月6日:蔵人頭
- 承暦5年(1081年) 正月22日:修理右宮城使。7月2日:卒去(蔵人頭左中弁正四位下兼木工頭修理右宮城使)
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年