源為公
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 伊奈右馬大夫、伊奈真人 |
官位 | 従五位下、右馬助、伊豆掾、信濃守 |
氏族 | 清和源氏満快流(信濃源氏) |
父母 | 父:源為満、母:源頼信の女 |
子 | 為衡、為扶、為邦、為実、為基、為氏、神(諏方)為仲室 |
源 為公(みなもと の ためとも、寛弘2年(1005年)-承保2年(1075年)4月11日)は、平安時代後期の武将。甲斐守源為満の子。母は河内守源頼信女。信濃源氏、伊那源氏の祖。
略歴
[編集]源経基の五男・満快の曾孫にあたり、また河内源氏の祖・源頼信の娘を母としていたことから源義家・義光等の従兄弟にあたる(『尊卑分脈』)。伝えによれば、前九年の役・後三年の役に従軍して戦功を挙げた後に信濃守[1]となって任国に下り、同国伊奈郡に永承年中に土着した[2]。「真人」の通称があることや子孫達の伊奈での優位性などから伊奈郡宰領(郡司)となって土着したとも推測される。為公が築いたといわれる郡内北部の上ノ平城は長子・中津乗為衡の家系が居城とした。
為公は承保2年(1075年)4月11日に没した。71歳。
諏方社の神職を世襲する信濃の名族・神氏(諏方氏)に娘を嫁がせ姻戚関係を結んだ。婿であった大祝・神(みわ)為仲は後三年の役で奥州へと発向する際、神氏に伝わる系図類の一切を舅・為公の許に預けたが、これを紛失したことにより為仲の曾祖父より先14代の神氏の系譜が不明となったとの記述がある(『神氏系図』)[3]。
為公の子孫は信濃国内を中心に幾つもの有力な武家となって存続したことから、信濃源氏の祖の一人(あるいは伊那源氏の祖)とされる。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『神氏系図』の記載では「信濃権守」。
- ^ 旧伊那郡南部にあたる現在の飯田市八幡町にある鳩ヶ嶺八幡宮は前九年の役の最中の康平5年(1062年)に為公が石清水八幡宮を当地に勧請したものであるとされる。
- ^ 神為仲の後裔は諏方氏の嫡流から外れたが、為公の長男・為衡の後裔は神(諏方)氏の庶流・知久氏となって存続しており、また『尊卑分脈』清和源氏系図では次男・為扶の後裔として「手塚次郎輔光」「手塚太郎光頼」がみえ、さらに四男・為実の後裔に鎌倉期以降の諏方・手塚氏の系譜を載せることなどから、その後も伊那源氏と諏方・金刺一族が深い繋がりを有したことが窺われる。なお、近世の高島藩主家は為公の後裔(清和源氏満快流)を称した。
- ^ 『尊卑分脈』では次兄・為扶の三男ともしている。
出典
[編集]- 「伊那源氏の発祥」『箕輪町誌 歴史編』(箕輪町誌編纂刊行委員会・1986年)
- 「神氏系図」『諏訪史』第二巻 前編(信濃教育会諏訪部会・1931年)
- 「清和源氏(上)」『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』8 (吉川弘文館・近代デジタルライブラリー)
- 「片切氏系図」