片平哲也
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 福島県会津若松市 |
生年月日 | 1967年10月3日(57歳) |
身長 体重 | 182 cm 83 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手→外野手→投手 |
プロ入り | 1985年 ドラフト2位 |
初出場 | 1987年9月27日 |
最終出場 | 1990年9月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について |
片平 哲也(かたひら てつや、1967年10月3日 - )は、福島県会津若松市[1]出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。
来歴・人物
[編集]銚子商業高では、3年次の1985年に同期の大川隆と投の二本柱を組み、同年の夏の選手権に出場する[1]。本戦の1回戦では、自身が先発を務め、大川は1番・中堅手として出場するが、この大会で準優勝した宇部商業高の田上昌徳(新日本製鐵光)に抑えられ敗退した[2]。真上から投げ下ろす速球は威力があり、前評判は高かったが制球難が災いした。またこの試合で着用したキャップのサイズが全く合わず、投球のたびにマウンドに落下。これを見かねた球審の西大立目永から「ゴムひもでも付けときなさい!」と叱責される場面もあった。
1985年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから投手として2位指名を受け入団した[1]。高校同期の大川は横浜大洋ホエールズから3位指名を受けた。
プロ2年目の1987年から外野手に転向し、同年に一軍初出場を果たす[1]。同年はシーズン終盤の6試合に左翼手として先発出場。同年は打率.393を記録し大きく期待されるが、その後は伸び悩む。
1988年11月、片岡光宏・斉藤浩行との2対2の交換トレードで、本村信吾と共に広島東洋カープに移籍[1]。1989年はMLBのマイナーリーグ1Aのペニンシュラ・パイロッツに野球留学した。1991年にはシーズン途中から投手に再転向するが、一軍登板機会はなく翌年限りで現役引退[1]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1987 | 中日 | 12 | 32 | 28 | 4 | 11 | 2 | 0 | 1 | 16 | 10 | 0 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | 7 | 0 | .393 | .419 | .571 | .991 |
1988 | 5 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .333 | .333 | .333 | .666 | |
1990 | 広島 | 11 | 13 | 13 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | .231 | .231 | .231 | .462 |
通算:3年 | 28 | 48 | 44 | 5 | 15 | 2 | 0 | 1 | 20 | 11 | 0 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | 11 | 1 | .341 | .362 | .455 | .816 |
記録
[編集]- 初出場:1987年9月27日、ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤ球場)、7回に郭源治の代打で出場、宮本賢治から四球
- 初打点:1987年9月28日、ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤ球場)、8回に荒木大輔から左犠飛
- 初先発出場:1987年10月3日 広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、8番・左翼手
- 初安打:1987年10月7日、阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)、キーオから単打
- 初本塁打:1987年10月11日、ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤ球場)、6回に中本茂樹から左越ソロ
背番号
[編集]- 43 (1986年 - 1988年)
- 31 (1989年 - 1991年)
- 57 (1992年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 片平哲也 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference