王光祖

王 光祖
各種表記
漢字 王 光祖
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: おう こうそ
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王 光祖(おう こうそ、生没年不詳)は、中国漢王朝武帝紀元前108年朝鮮半島に設置した植民地楽浪郡で勢力を張った中国系豪族楽浪王氏出身の北魏官僚[1][2]官位は「寧遠将軍」「徐州長史」「淮陽太守」「司州中正」「晋陽男」[3][1]

人物

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高祖父・王波は、前燕の「儀同三司 武邑公」を務めた[3][1]。曾祖父・王班は、後燕の「散騎常侍」「平西将軍」「給事黄門侍郞」「晋陽侯」を務めた[2][1]。祖父・王定国は、北魏の「庫部給事」「冠軍将軍」「河内太守」「幷州刺史」「博平男」を務めた。父・王唐成は、北魏の「広武将軍」「東宮侍郞」「合肥子」を務めた[3][1]。子・王禎は、北魏の「員外散騎侍郎」を務めた[2][1]

北魏西魏政治家である宇文泰母親明徳皇后と兄の王盟は楽浪王氏であるが、王光祖の高祖父・王波と祖を同じくするため、明徳皇后、王盟、王光祖は同じ家門親族である[2]。王光祖一族は、代々前燕後燕北魏から爵位を与えられた官職従事者であり、北魏皇室とも婚姻を結ぶことができた名家だった[2]

王光祖の祖父・王波は、前燕の「儀同三司 武邑公」を務めているため、楽浪郡滅亡前後に朝鮮から中国に移住したとみられる[4]

子の王禎墓誌が出土しており、王光祖一族は中国殷王朝の政治家・箕子の後裔であることが記されている。すなわち、殷王朝に箕子比干微子啓の三人の忠臣がおり、中国周王朝武王箕子を朝鮮に封じたために姓を王氏とした、と記録されている[2][4][1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 羅新『王化与山険:中古辺裔論集』北京大学出版社、2019年7月1日、435-439頁。ISBN 978-7301305836 
  2. ^ a b c d e f “왕정묘지명(王禎墓誌銘)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2022年10月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221026233317/http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0077840 
  3. ^ a b c 『中華文史論叢』上海古籍出版社〈第84輯〉、2006年12月、136頁。 
  4. ^ a b “왕기묘지명(王基墓誌銘)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2022年10月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221027223550/http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0039050