環5モノレール
環5モノレール(かん5モノレール)は、1966年頃から1972年にかけて、東京都区部に建設が検討されたモノレール路線。
おおむね環状5号線沿いの一周約35キロメートルのルートを環状運転する構想だった。
概要
[編集]1966年頃から主に社団法人日本モノレール協会が「東京環状モノレール」として提案し、1969年からは東京都首都整備局の「モノレールに関する調査研究会」が「環5モノレール」として検討した。この路線構想は、おおむね次の3路線をモノレールで代替するものであった。
- 都市交通審議会答申第10号の地下鉄12号線(都営地下鉄大江戸線)建設計画[1]
- 都営トロリーバスの池袋 - 新宿 - 渋谷間[2][3]
- 都電の三ノ輪 - 王子 - 早稲田間(27・32系統、現在の都電荒川線)
しかし、1972年に都市交通審議会答申第15号で、第1項目は地下鉄12号線、第2項目は地下鉄13号線(東京メトロ副都心線)が担うこととされた。このため環5モノレールは、第3項目のみを対象とした約半分の路線長の「環5北モノレール」[4]に縮小された。しかし、廃止予定だった都電の三ノ輪 - 王子 - 早稲田間が1974年に存続することが決まり、環5北モノレールも事実上廃案となった。
路線データ
[編集]- 路線距離:35.8 km[5]
- 方式:日本モノレール協会は跨座式(日本跨座式)と懸垂式(サフェージュ式)の両方で提案。明治通りの上を走る跨座式と懸垂式モノレールのモンタージュ写真も作られた[6]。「モノレールに関する調査研究会」は跨座式を選択[5]。
- 複線区間:全線[5]
- 車庫:2か所。日本モノレール協会は都電荒川車庫と大久保車庫の用地利用を提案。「モノレールに関する調査研究会」は荒川車庫については追認したが、大久保車庫は売却済のため、もう1か所の用地は運河の上空に22万6千平方メートルの人工地盤を建設するとした[7]。
- 駅数:37[5]
年表
[編集]- 1965年9月、日本モノレール協会が都電の三ノ輪 - 王子 - 早稲田間(現在の都電荒川線)のモノレール化を提案[8]。
- 1966年5月、日本モノレール協会事務局長、熊谷次郎が路線延長37.0 kmのモノレール「環状線」を提案[9]。
- 1966年12月、東京都交通局が財政再建のための基本方針15項目で、都電・都営トロリーバス全廃に言及。
- 1967年2月、「三副都心連絡協議会」が、池袋 - 新宿 - 渋谷間にトロリーバス代替のモノレール建設を提案し、東龍太郎東京都知事に対して要望書を提出[2]。
- 1967年4月、日本モノレール協会が池袋 - 新宿 - 渋谷間のモノレール計画を発表[3]。
- 1967年7月、日本モノレール協会が、池袋 - 新宿 - 渋谷間モノレール案を組み込んだ形で、都電・都営トロリーバスを代替するモノレール3路線を提案し、美濃部亮吉東京都知事に対して要望書を提出。路線延長約40 kmの「外環状線」と約28 kmの「内環状線」、約14 kmの「東西線」[10]。
- 1967年7月20日、東京都交通局事業財政再建計画が都議会で承認される。都電・都営トロリーバスの全廃決定。代替交通機関として、地下鉄・バスのほかにモノレールも検討するとした[11]。
- 1968年4月、都市交通審議会答申第10号で地下鉄12号線が位置づけられる。運輸省はこの12号線にモノレールを適用することを検討するとした[1]。
- 1968年6月、日本モノレール協会が路線延長35.0 km、駅数36の「東京環状モノレール計画案」を作成[7]。依頼元の運輸省に報告[12]。美濃部都知事と都議会各会派に都での検討を提案[7]。
- 1969年9月、東京都が首都整備局に「モノレールに関する調査研究会」を設置[13]。
- 1970年12月21日、「モノレールに関する調査研究会」が路線延長35.8 km、駅数37の路線計画がまとめられた中間報告書を美濃部知事に提出[5]。
- 1972年3月1日、都市交通審議会答申第15号で地下鉄12号線、地下鉄13号線が位置づけられる。
- 1972年3月2日、美濃部知事が地下鉄12号線の免許を申請する意向を示す[14]。
- 1972年度、「モノレールに関する調査研究会」が「環5モノレール」から地下鉄12号線、地下鉄13号線と重複する区間を削除し、都電の三ノ輪 - 王子 - 早稲田間(現在の都電荒川線)の代替路線の性格が強い「環5北モノレール」を検討[15][4]。
- 1974年3月、美濃部知事が都電の三ノ輪 - 王子 - 早稲田間を存続する意向を示す[16]。
- 1974年4月、「モノレールに関する調査研究会」が美濃部知事に最終報告を行う[17]。「モノレール開発計画報告書」及び「モノレール調査報告書」を提出。
- 1974年9月、都議会で都電の三ノ輪 - 王子 - 早稲田間存続が決定される。「環5北モノレール」は事実上廃案。
駅一覧
[編集]駅名はすべて仮称。全駅東京都区部に所在。日本モノレール協会では便宜上、東京駅の東に位置する深川森下町駅を始点としていた[7]。
駅名 | 駅間キロ | 累計キロ | 相当する都電・都営トロリーバス | 備考 | 所在地 | |
---|---|---|---|---|---|---|
路線系統 | 停留場名 | |||||
深川森下町駅 | - | 0.0 | 都電23系統 (1972年11月廃止) | 森下町 | 江東区 | |
清澄公園駅 | 1.0 | 1.0 | 江東区役所前 | 清澄庭園バス停付近 | ||
深川駅 | 0.6 | 1.6 | 深川一丁目 | 深川一丁目バス停付近 | ||
越中島駅 | 0.8 | 2.4 | 越中島 | |||
月島駅 | 1.1 | 3.5 | 月島通三丁目 | 月島三丁目バス停付近 | 中央区 | |
勝どき駅 | 1.1 | 4.6 | 新島橋バス停付近 | |||
浜松町駅 | 1.7 | 6.3 | 都電1・4系統 (1967年12月廃止) | 大門 | 港区 | |
東京タワー前駅 | 1.2 | 7.5 | 東京タワー(公園下)バス停付近 | |||
二ノ橋駅 | 1.2 | 8.7 | 都電34系統 (1969年10月廃止) | 二ノ橋 | 二ノ橋バス停付近 | |
古川橋駅 | 1.0 | 9.7 | 古川橋 | 古川橋バス停付近 | ||
天現寺駅 | 1.1 | 10.8 | 天現寺橋 | 天現寺橋バス停付近 | 渋谷区 | |
恵比寿駅 | 1.0 | 11.8 | 渋谷橋 | 渋谷橋バス停付近 | ||
並木橋駅 | 0.8 | 12.6 | 並木橋 | 並木橋バス停付近 | ||
渋谷駅 | 0.4 | 13.0 | 渋谷駅前 | |||
神宮前駅 | 1.0 | 14.0 | 都営トロリーバス 102系統 (1968年3月廃止) | 神宮前六丁目バス停付近 | ||
千駄ヶ谷駅 | 0.9 | 14.9 | 原宿三丁目 | |||
代々木駅 | 1.1 | 16.0 | 千駄ヶ谷四丁目 | |||
新宿駅 | 0.6 | 16.6 | 新宿四丁目 | 新宿区 | ||
西大久保駅 | 1.5 | 18.1 | 西大久保二丁目 | 大久保通バス停付近 | ||
早稲田駅 | 0.8 | 18.9 | 戸山車庫前 | 副都心線西早稲田駅付近 | ||
目白駅 | 0.9 | 19.8 | 学習院下 | 豊島区 | ||
雑司ヶ谷駅 | 0.7 | 20.5 | 千登世橋 | 千登世橋バス停付近 | ||
池袋駅 | 0.8 | 21.3 | 池袋駅南口 | |||
巣鴨学園前駅 | 1.2 | 22.5 | 都営トロリーバス 103・104系統 (1968年3月廃止) | 堀之内町 | 上池袋三丁目バス停付近 | |
西巣鴨駅 | 1.2 | 23.7 | 西巣鴨 | |||
王子駅 | 1.1 | 24.8 | 王寺駅前 | 北区 | ||
荒川車庫前駅 | 1.3 | 26.1 | 都電27系統 (現在の荒川線の一部) | 荒川車庫前 | 車庫併設 | 荒川区 |
尾久駅 | 0.6 | 26.7 | ||||
熊野前駅 | 1.0 | 27.7 | 熊野前 | |||
東尾久駅 | 0.5 | 28.2 | 東尾久三丁目 | |||
町屋駅 | 0.8 | 29.0 | 町屋駅前 | |||
荒川区役所前駅 | 1.0 | 30.0 | 荒川区役所前 | |||
三ノ輪駅 | 1.1 | 31.1 | 都電31系統 (1969年12月廃止) | 三ノ輪橋 | 台東区 | |
竜泉寺駅 | 0.6 | 31.7 | 竜泉寺町 | |||
浅草駅 | 0.9 | 32.6 | つくばエクスプレス浅草駅付近 | |||
厩橋駅 | 0.9 | 33.5 | 都電23系統 (1972年11月廃止) | 厩橋 | ||
両国駅 | 1.4 | 34.9 | 墨田区役所前 | 墨田区 | ||
深川森下町駅 | 0.9 | 35.8 | (本表の最上欄を参照) | (本表の最上欄を参照) | 江東区 |
並行して検討された路線
[編集]- 中央線:新宿 - 飯田橋 - 横川橋、11.8 km[9]。日本モノレール協会が提案。都市交通審議会答申第6号の「9号線」の一部(都営地下鉄新宿線の原型)をモノレールに置き換えたもの。
- 東西線:中村橋 - 目白 - 飯田橋 - 神田 - 錦糸町、18.3 km[9]。日本モノレール協会が提案。都市交通審議会答申第6号の「10号線」(東京メトロ有楽町線の原型)をモノレールに置き換えたもの。
- 南北線:赤羽 - 王子 - 六本木 - 目黒、23.3 km[9]。日本モノレール協会が提案。都市交通審議会答申第6号の「7号線」(東京メトロ南北線の原型)をモノレールに置き換えたもの。
- 江東モノレール:「モノレールに関する調査研究会」が1970年度に調査[18][19]。→詳細は「江東モノレール」を参照
- 環8モノレール:葛西 - (環状7号線) - 小岩 - 青戸 - 亀有 - 赤羽 - (環状8号線) - 蒲田 - (東京湾岸道路)( - 葛西)[7]。日本モノレール協会では「外環状モノレール」と呼んでいた。「モノレールに関する調査研究会」が1971年度に「環6,7,8モノレール」として調査[20]、1972年度に「環8モノレール」として調査[15]。後のメトロセブン、エイトライナーと似た構想であるが、東京湾岸道路を通して環状運転するものだった。
脚注
[編集]- ^ a b 「都市交通審議会で地下鉄網の整備の答申をいただきました際に、十二号線と申しまして東京の環状を回る線が一本計画として出ております。これはあるいはモノレールで実施したらいいのではないか、こういう考え方を持って検討いたしております。」町田直政府委員(運輸省鉄道監督局長)、第61回国会 内閣委員会 第40号、1969年7月
- ^ a b 「三副都心のモノレール」、「東京だより」第190号(1967年3・4月号)、P44 - 45、東京だより新社、1967年3月
- ^ a b 「池袋 - 新宿 - 渋谷3都心を結ぶモノレール建設計画」日本モノレール協会、「モノレール」9号、1967年4月
- ^ a b 「昭和四十七年度においては、環状七・八号線(西側は環八、東側は環七)を中心とする環状モノレール及び早稲田~王子~三ノ輪に関連する区間のモノレールについて調査」三宅政一議員の文書質問に対する美濃部亮吉知事の答弁書、東京都議会 昭和48年_第1回定例会(第8号) 本文、1973年3月15日
- ^ a b c d e 「東京都のモノレールに関する調査研究会中間報告」、日本モノレール協会、「モノレール」18号、P36 - 41、1971年6月
- ^ 「計画された東京環状モノレール」、「運輸」第50巻第12号、p10 - 13、運輸社、1969年11月
- ^ a b c d e 「研究事例A 巨大都市のモノレール計画<東京環状線>」、熊谷次郎(日本モノレール協会事務局長)、「モノレール」19号、P70 - 79、1971年12月
- ^ 「都電 王子・早稲田線にモノレールを」読売新聞1965年9月8日朝刊13面
- ^ a b c d 「都市交通機関としてのモノレール」熊谷次郎(日本モノレール協会事務局長)、「新都市」第20巻第5号、P43 - 49、都市計画協会、1966年5月
- ^ 「都電にかわりモノレールを」読売新聞1967年7月8日夕刊12面
- ^ 東京都議会 昭和42年第2回定例会(第11号) 本文、1967年7月20日
- ^ 「過密都市・東京の交通問題と未来像――脚光を浴びる環状モノレール建設構想の周辺」、「東邦経済」39号、P30、東邦経済社、1969年5月
- ^ 「昭和45年度 事業概要」、東京都首都整備局、P83、1970年
- ^ 「地下鉄十二号線については、グラントハイツ返還後の跡地利用、新宿副都心の開発及び牛込柳町地区の再開発等との関連から、これも都が積極的に建設すべき路線であると考え、都市交通審議会の答申も出されましたので、直ちに免許出願をいたす所存でございます。」美濃部亮吉、東京都議会 昭和47年_第1回定例会(第3号) 本文、1972年3月2日
- ^ a b 「昭和48年度 事業概要」、東京都首都整備局、P83、1973年
- ^ 「都電についてでございますが、荒川線二系統は一応五十一年ころまで存置することになっております。しかし存置の理由であった代替バスの運行、道路の整備が必ずしも五十一年で満たされる見通しがない現状では、物理的に都電を廃止することは困難でございます。したがって、今後の対策としては、専用軌道のまま存置することを検討中でございいます。私といたしましてはできるだけ存置をいたしたい、そう念願をしております。」美濃部亮吉、東京都議会 昭和49年_第1回定例会(第6号) 本文、1974年3月7日
- ^ 「昭和49年度 事業概要」、東京都首都整備局、P86、1974年
- ^ 「進むモノレール建設構想――首都圏では東京環状モノレール構想など」、「東邦経済」41号、P88 - 91、東邦経済社、1971年4月
- ^ 「昭和46年度 事業概要」、東京都首都整備局、P79、1971年
- ^ 「昭和47年度 事業概要」、東京都首都整備局、P75、1972年