田沼意明
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 安永2年(1773年) |
死没 | 寛政8年9月22日(1796年10月22日) |
官位 | 従五位下、下野守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 遠江相良藩主→陸奥下村藩主 |
氏族 | 田沼氏 |
父母 | 田沼意知 |
兄弟 | 意明、意壱、意信 |
妻 | 織田信浮長女・喜姫 |
子 | 意壱 |
田沼 意明(たぬま おきあき)は、江戸時代中期の大名。遠江国相良藩2代藩主、のち陸奥国下村藩初代藩主。官位は従五位下・下野守。相良藩田沼家2代。初代相良藩主・田沼意次の孫。
略歴
[編集]田沼意次の世子で若年寄を務めた田沼意知の長男。正室は織田信浮長女の喜姫。
意知が天明4年(1784年)に暗殺されたため、祖父である意次の世継となり、天明7年(1787年)に家督を継いだ。ただし、祖父が松平定信の粛清を受けて失脚したため、相良領は意次最盛期の5万7000石から意明継承時には2万7000石まで減封され、さらにそののち下村1万石に減移封となった。寛政5年(1793年)の定信失脚までは、領地へ下向することも許されず、江戸定府とされ、将軍への御目見や従五位下の官位任官も受けられなかった。
寛政8年(1796年)に大坂定番もしくは大坂加番に任命されたが、領地を一度も見ることなく[1]同年24歳で死去し、跡を弟で養嗣子の意壱が継いだ。
系譜
[編集]父母
- 田沼意知(父)
正室
- 織田信浮の娘
養子
- 田沼意壱 - 意知の次男
脚注
[編集]- ^ 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社