留岡清男

留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 1977年2月3日)は、日本教育者教育学者。専攻は価値心理学、教育科学・生活教育論[1]

生涯

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東京府北豊島郡巣鴨村(現・豊島区)出身。旧制早稲田中学校を経て1920年6月、第二高等学校卒業。東京帝国大学法学部に入学し、翌年文学部に転部、1923年3月、東京帝国大学文学部心理学科卒業[1][2]

1923年4月、東京農業大学予科大学部講師(英語等担当)。1925年3月、東京農業大学予科大学部教授。1926年から法政大学講師、武蔵高等学校講師を兼務。1929年法政大学児童研究所設立に参画[注釈 1]。1929年病気に伏した留岡幸助に代わり、教職を辞して北海道遠軽の家庭学校社名渕分校教頭に就き教護事業を継ぐ。1931年10月より公刊された岩波講座『教育科学』の附録雑誌『教育』の発行に1933年8月まで協力[注釈 2]

1933年の間に家庭学校社名渕分校を退職し、城戸幡太郎に招かれて法政大学非常勤講師(児童保護担当)就任[3]。また、岩波講座『教育科学』の附録雑誌『教育』発行終了後には、新たに同名で発刊した雑誌『教育』の編集委員を務めた[注釈 3]。この頃、小金井治療教育所の維持員となり経営に参加[4]1936年10月、保育問題研究会を設立[注釈 4]1937年5月、教育科学研究会の設立に当たっては、幹事長に就任[注釈 5]。1937年の東北、北海道の冷害を城戸と視察。「生活綴方」批判を述べ、論議を呼ぶ[5][注釈 6]。同年10月、『保育問題研究』を創刊する[6]1940年4月、法政大学文学部教授(心理学担当)。同年、大政翼賛会青年部副部長に就任[注釈 7]。その後、地方部副部長に転じたのち翼賛会を辞職。1943年、日本出版文化協会理事に就任。1944年6月、治安維持法違反容疑で拘束される(教科研事件)。1945年4月、起訴猶予処分にて釈放。1946年公職追放処分を受ける(1952年に解除)。

1947年、日本教育組合連盟理事長、財団法人北方民生協会理事長に就任。1952年4月、北海道家庭学校4代校長に就く。北海道大学教育学部教授(社会教育論担当)[注釈 8]1959年4月、北海道大学産業教育計画研究施設の初代施設長に就任。1962年3月、北海道大学停年退官。1962年4月、北星学園大学文学部教授(社会学・教育学担当)。1968年3月、北星学園大学定年退職。

1968年4月、北海道栄養短期大学幼児教育学科教授(幼児教育論担当)。1969年3月、高齢を理由に北海道家庭学校長を勇退。1971年4月、北星学園女子短期大学学長学校法人北星学園理事に就く(1972年12月まで)。1974年4月、旭川大学経済学部教授(教育学担当)。1977年2月3日、札幌医科大学附属病院にて教授在職のまま胃がんのため逝去[7]

1977年2月10日、北海道家庭学校にて学校葬が営まれた。1978年9月24日、北海道家庭学校の構内に留岡清男記念碑が建立される[8]。墓所は多磨霊園[9]

家族

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著書

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  • 『生活教育論』西村書店 1940年
  • 『国民運動と国民教育者』同盟通信社 1942年
  • 『村づくりと人』国土社 1950年
  • 『教育計画』三井透編 分担執筆 国土社 1957年
  • 『教育農場 五十年』岩波書店 1964年
  • 『生活教育論』日本図書センター 1990年

論文

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  • ナトルプの観たるリップス」『心理研究』第27巻 (通巻158号) (1925)
  • 城戸幡太郎・心理学の問題」『心理学研究』第1巻6輯 (1926)
  • 「『疑惑』の実験的考察」『心理学研究』第3巻3輯 (1928)
  • 三井透と共著「知覚の表現的構造について 其の一」『心理学研究』第4巻4輯 (1929)
  • 「感化事業」『岩波講座教育科学・第10冊』岩波書店 (1932)
  • 「農村教育運動」『岩波講座教育科学・第20冊』岩波書店 (1932)
  • 「教育風土記 長野県の巻 (その3) - (その5)」『教育』第1巻3号 - 5号 (1933)
  • 「教育風土記 新潟県の巻 (その3) - (その5)」『教育』第1巻8号 (1933) - 第2巻2号 (1934)
  • 「教育風土記 愛知県の巻 (その1) - (その3)」『教育』第2巻10号 - 12号 (1934)
  • 篠目あや子と共著「習性変容の予備実験」『心理学研究』第1巻10輯 (1935)
  • 阿部重孝論」『教育』第4巻1号 (1935)
  • 「教育における目的と手段との混雑について」『生活学校』第4巻2号 (1938)
  • 「最小限必要の思考原則」『教育科学研究』第1巻1号 (1939)
  • 「教育科学研究会の動き」『教育科学研究』第1巻2号 (1939)
  • 「教育巡礼記——山形・秋田の教育―」『教育科学研究』第1巻3号 (1939)
  • 「北海道教育と酪農文化 - 北海道教育の問題点について」『北海道教育評論』昭和15年1月号 (1940)
  • 「教育の危機」『教育科学研究』第2巻3号 (1940)
  • 「教育科学研究会の五大目標」『教育科学研究』第2巻4号 (1940)
  • 「岩手教育紀行」『教育科学研究』第2巻4号 (1940)
  • 「教育科学研究会の使命と現状」『北海道教育評論』昭和15年4月号 (1940)
  • 「第二回全国教・研・協議会の使命は何か」『教育科学研究』第2巻7号 (1940)
  • 「新体制と政治教育」『教育科学研究』第2巻8号 (1940)
  • 「生活教育の理念」『北海道教育評論』昭和15年9月号 (1940)
  • 「国民教育論者の痛憤」『中央公論』昭和15年10月号 (1940)
  • 「教育新体制と教育者の任務」『教育科学研究』第2巻10号 (1940)
  • 「教・科・研会員諸賢に愬ふ」『教育科学研究』第3巻2号 (1941)
  • 「北海道教育風土記 (1) - (13) 」『北海道教育評論』1955年2月号 - 1958年1月号
  • 「教育における計画化の概念」三井透編『教育計画』国土社 (1956)
  • 「跋・生活教育の診断と処方箋」籠山京編『生活教育』国土社 (1956)
  • 「文化財利用者の組織」『北海道視聴覚教育』第2号 (1953.7.)
  • 「教育診断班の提唱」『北海道視聴覚教育』第3号 (1953.8.)
  • 「卵映画会のことども」『北海道視聴覚教育』第12号 (1954)
  • 「本誌の発行とその展開」『北海道視聴覚教育』第16号 (1954)
  • 「北海道教育の前進のために」『新しい教材 (北海道視聴覚教育改題)』創刊号・通巻17号 (1955)
  • 「根室の A・V・E 」『新しい教材』通巻21号 (1955)
  • 「ユネスコの視聴覚教育の実験報告」『新しい教材』通巻28号 (1956)
  • 「奮発心はどうしたら起きるか (1) - (4)」『北海道教育評論』第15巻3号 - 8号 (1962)

脚注

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注釈

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  1. ^ 城戸幡太郎教授らとともに八王子の恩方村の季節保育所へ行き、実習のような形で学生をつれていって協力させるなどの指導を行った。城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 pp.42-43
  2. ^ 講座『教育科学』では、「感化事業」、「農村教育運動」の二篇を、附録雑誌『教育』では「本邦に於ける農村教育運動」を執筆。父幸助の後を継いでいた教護事業については、ただ反社会的な行為で見放された少年たちを社会へ復帰させる矯正教育に留まらず、そのような少年たちを出さない社会をつくることまでもが教護の持つ意味であり、そこに家庭や学校を含めた広義の「社会教育」があることを主張した。城戸は、先の「社会教育」が、社会で協同に生活する人々を幸せにすることを目的とすること、また、その生活を豊かにする生産と消費の方法を科学技術的に研究しその成果を協同生活に反映させる方法を必要とすること、に留岡の提起する生活教育の原理があると考えた。城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 pp.66-67
  3. ^ この雑誌はのちに1937年の教育科学研究会発足以降は、1944年3月まで同研究会の準機関誌の役割を果たした。
  4. ^ 代表者には城戸が就任。城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 p.273
  5. ^ 保育問題研究会は、調査の結果から、幼稚園と保育所の保育一元化とその義務制を主張し、教育科学研究会は、教育の「生活主義と科学主義」を標榜して教育運動を展開するようになった。生活主義とは、教育は国民の生活権を保障することによって、国民生活の安定と慶福を願うことであり、科学主義は、その目的を達するための科学的方法を研究することであった。城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 p.80
  6. ^ 「酪聯と酪農義塾——北海道教育巡礼記——」問題は綴方による生活指導を強調する論者が、一体、生活指導を実際どんなふうに実施しているか、そしてどんな効果をあげているか、ということが問われるのである。強調論者の実施の方法をきいてみると、児童に実際の生活の記録を書かせ、偽らざる生活の感想を綴らせる、すると、なかなか佳い作品ができる、これを読んできかせると、生徒同志がまた感銘をうける、というのである。そしてそれだけなのである。私はいずれその位のことだろうと予想していたから別に驚きもしなかったが、そんな生活主義の教育は、教育社会でこそ通ずるかも知れないが、おそらく教育社会以外のいかなる社会においても絶対に通ずることはないし、それどころか、かえっていたずらに軽蔑の対象とされるに過ぎないだろう。このような生活主義の綴方教育は、畢竟、綴方教育の鑑賞に始まって感傷に終るに過ぎないという以外に、最早何もいうべきことはないのである。生活主義の教育とは何か、端的にいえば、最小限度を保障されざる生活の事実を照準として思考する思考能力を涵養することである。それによって必然的に、最小限度を保障されざる大衆の生活が発見されるだろう。生活主義の教育は、そこにおいて、科学性と大衆性との基礎を與えられる。『教育 第5巻10号』 岩波書店 1937年
  7. ^ 1940年2月頃から多くの教育科学研究会員が治安維持法違反で検挙されるなどの弾圧が強くなってきた。弾圧を避けてむしろ大政翼賛会の中で教育の生活主義と科学主義を標榜する教育科学運動を実現させるために、加入。城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 pp.138-139
  8. ^ 城戸に協力して社会教育に映画を利用することに努力し、1952年11月北海道視聴覚教育研究会を発足させ、のちにフィルム・ライブラリーの設置にまで発展させた。城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 p.191

出典

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  1. ^ a b 大泉溥編『日本心理学者事典』クレス出版 2003年 p.754
  2. ^ 留岡清男参照
  3. ^ 城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 p.42
  4. ^ 城戸幡太郎『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 p.38
  5. ^ 城戸幡太郎著『教育科学七十年』北大図書刊行会 1978年 p.273
  6. ^ 山田清人『教育科学運動史―1931年から1944年まで』国土社 1968年 p.298
  7. ^ 以上につき『留岡清男年譜』「留岡清男の子ども研究と生活教育論」(日本の子ども研究 : 明治・大正・昭和 第7巻)クレス出版 2009.10 p.639以下
  8. ^ 「留岡清男先生の死を悼んで」『教育 27巻4号』 国土社 1977年4月 p.91以下
  9. ^ 留岡清男”. www6.plala.or.jp. 2024年12月7日閲覧。

参考

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  • 『北海道家庭学校と留岡清男』藤井常文 三学出版 2003年
  • 『留岡清男先生遺文集』星屋千重 自費出版 1981年
  • 『学窓』星屋千重 自費出版 1971年
  • コトバンク
  • 大泉溥 編 『日本心理学者事典』 クレス出版 (2003年) ISBN 4-87733-171-9