疋田生次郎
ひきた せいじろう 疋田 生次郎 | |
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生誕 | 1928年4月7日 |
出身地 | 日本 北海道 |
死没 | 2001年2月17日(72歳没) 日本 |
学歴 | 武蔵野音楽大学専攻科 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 声楽家(バリトン) 音楽教育者 |
担当楽器 | 声楽 |
疋田 生次郎(ひきた せいじろう、1928年〈昭和3年〉4月7日 - 2001年〈平成13年〉2月17日[1])は、日本の声楽家(バリトン)・音楽教育者。元・武蔵野音楽大学教授。
経歴
[編集]北海道出身。1957年(昭和32年)武蔵野音楽大学専攻科修了[1]。
1969年(昭和44年) - 1972年(昭和47年)イタリアのローマ、ミラノに留学し、マリオ・サンマリーニ、デ・スカルツィ、レオニーダ・ベッロンらに師事[1]。
音楽教育者として優れ、優秀な声楽家を数多く育てた。著名な門下生は、伊原直子[1]、山路芳久、牧野正人[2]、青山智英子[3]、星洋二、高橋啓三、村田健司、笠井幹夫、田口興輔、塩田美奈子、丹藤亜希子[4]、三縄みどり[5]、大澤一彰[6]、小貫岩夫[7]、新垣勉[8]、富浦元公[9]など、錚々たる顔ぶれである。疋田の指導方法は「疋田式発声法」と呼ばれている。門下生によるグループ「グルッポ・ヴィーヴォ」が組織されており、東京と熊本[10]で2020年(令和2年)現在も活動が行われている。
また、日伊声楽コンコルソなど国際コンクールの審査員も務めた[1]。
元・日伊音楽協会会員、武蔵野音楽協会会員[1]。
2001年(平成13年)2月17日死去。72歳没。
2007年(平成19年)4月25日「疋田生次郎先生を偲ぶ会」により、めぐろパーシモンホール大ホールにて「疋田生次郎の世界 七回忌に偲ぶ」が開催された[11]。
2013年(平成25年)9月23日には紀尾井ホールにて「第9回グルッポ・ヴィーヴォ演奏会《思い出の中の…疋田生次郎先生》」が開催されている[12]。出演者は33名にのぼったという[13]。
オペラ出演歴
[編集]- 1957年(昭和32年)12月 コンセールf メノッティ『電話』ベン
- 1958年(昭和33年)11月 長門美保歌劇団 西崎嘉太郎『髭櫓』平助どん
- 1958年(昭和33年)12月 青年グループ プロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』ファルファレッロ
- 1959年(昭和34年)11月 長門美保歌劇団 ドヴォルザーク『ルサルカ』水の精の男
- 1960年(昭和35年)6月 青年グループ メノッティ『ブリッカー街の聖者』サルヴァトーレ
- 1961年(昭和36年)5月 青年グループ バーンスタイン『タヒチ島の騒動』サム
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f “疋田 生次郎”. コトバンク 新撰 芸能人物事典 明治 - 平成. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “牧野正人 プロフィール”. LA VITA Masato MAKINO. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “青山 智英子 教授”. 武蔵野音楽大学. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “キャストインタビュー 丹藤亜希子・松村英行”. 東京二期会. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “三縄みどり”. TOWER RECORDS. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “大澤 一彰”. 名古屋フィルハーモニー交響楽団. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “- kyukyo/kyukyoFiles/profile/2006solist.profile/06iwao_onuki.html テノール 小貫 岩夫”. 九州交響楽団. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “新垣 勉”. コーエンプラス. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “指導者プロフィール”. ベルカント唱法アカデミー東京. 2020年3月7日閲覧。
- ^ “グルッポ・ヴィーヴォBLOG”. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “疋田生次郎の世界 七回忌に偲ぶ”. ピティナ・コンサート情報. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “第9回グルッポ・ヴィーヴォ演奏会《思い出の中の…疋田生次郎先生》”. 音楽之友社. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “第9回グルッポ・ヴィーヴォ演奏会”. ピアノ&ギター教室グランソノリテ. 2020年5月31日閲覧。
- ^ “疋田生次郎”. 昭和音楽大学オペラ情報センター. 2020年5月31日閲覧。