益田信世
益田 信世(ますだ のぶよ、1885年〈明治18年〉[1]8月[2][3] - 1974年〈昭和49年〉[1])は、昭和時代の政治家。実業家。神奈川県小田原市長。
経歴
[編集]益田孝の二男として東京に生まれる[1]。慶應義塾予科を経て[4]、ハーバード大学卒業[1]。三井物産に入社し、ニューヨーク支店などで勤務した[4]。小田原町緑4丁目(現小田原市緑4丁目)に住み、小田原紡績常務など多くの会社重役を兼任した[1]。小田原町会議員に当選し、足柄自治連盟を結成[1]。市制施行の中心的役割を担い[1]、1940年(昭和15年)12月20日、小田原市は県下で7番目に市制施行した[4]。1941年(昭和16年)3月に小田原市長に就任[4]。市長在任中は戦時下の為政者として庁舎の統合、市の紋章制定などを行った[4]。スポーツ振興にも尽力し、庭球に特に力を入れ自邸内のコートを一般に開放し、自費を投じて各種大会や指導会を開催した[1]。戦後間もない1946年(昭和21年)には小田原市体育連盟を結成し、初代会長に就任した[1]。この間、日本軟式庭球会長、足柄庭球会長、小田原庭球、小田原卓球協会長などを歴任した[1]。その後、公職追放となる[5]。
ほか、小田原電気鉄道、豊田式織機、益田農事各監査役[2]、大井川鐵道、日本不動産各取締役、王子製紙、日本徴兵保険各監査役を歴任した[3]。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年 。
- 人事興信所 編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年 。
- 神奈川県県民部県史編集室 編『神奈川県史 別編1 人物』神奈川県、1983年。
- 歴代知事編纂会 編集『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み』 第1、歴代知事編纂会、1983年。
- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年 。