相川俊孝

相川 俊孝
誕生 (1889-12-24) 1889年12月24日
石川県金沢市[1]
死没 (1940-11-18) 1940年11月18日(50歳没)
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴 旧制第四高等学校中退
ジャンル
代表作 『万物昇天』、『眠れる山脈』
親族 相川貴彦ひ孫
ウィキポータル 文学
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相川 俊孝(あいかわ としたか、1889年明治22年)12月24日 - 1940年昭和15年)11月18日)は、大正から昭和前期の日本詩人

経歴・人物

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金沢大学の前身となった旧制第四高等学校を中退[2]室生犀星の影響を受け詩作をはじめ、1916年大正5年)室生犀星・萩原朔太郎創刊の『感情』に同人として参加する。1920年(大正9年)には『感情同人詩集』に「懲罰」などの詩を発表[1]1922年(大正11年)『詩聖』に「凝視」などを発表し、1924年(大正13年)には佐藤春夫の序文を得て『万物昇天』を刊行、ほか詩誌『壺』も主宰した[2]

脚注

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  1. ^ a b 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『相川 俊孝』 - コトバンク
  2. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『相川俊孝』 - コトバンク