相良晃長
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 宝暦2年2月20日(1752年4月4日) |
死没 | 宝暦12年2月4日(1762年2月27日) |
改名 | 長次郎、民部(幼名)、晃長 |
別名 | 頼寛 |
戒名 | 柳性院殿天光直栄 |
墓所 | 熊本県人吉市の願成寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 肥後人吉藩主 |
氏族 | 秋月氏→相良氏 |
父母 | 父:秋月種美 養父:相良頼央 |
兄弟 | キセ、縫殿、秋月種茂、フミ、イク、トミ、ナカ、上杉治憲、晃長、セイ、大久保忠快、亀三郎、政次郎、エツ、トマ、秋月種懐、トヨ、中条信義、フチ、斉藤利国 |
特記 事項 | 死後に相良頼完が身代わりで藩主となり、公式には同一人物とされた。 |
相良 晃長(さがら みつなが)は、江戸時代中期の肥後国人吉藩主。第8代藩主・相良頼央の養子として、宝暦9年(1759年)から宝暦12年(1762年)まで藩主の地位にあり、公式には第9代藩主とされる1人目の人物である(後述)。
生涯
[編集]宝暦2年(1752年)2月20日、日向国高鍋藩の第6代藩主・秋月種美の三男として誕生した。兄に有名な出羽国米沢藩の第9代藩主・上杉鷹山(治憲)がいる。
宝暦9年(1759年)12月11日、頼央が暗殺されたため、末期養子に迎えられて家督を継いだ。相良家と秋月家の間には、領地が近いという関係の他、6代藩主・相良長在の正室・寿昌院が秋月家出身(種美の姉で晃長の伯母)という縁もあった。頼央の生前に仮養子として届出されており、当初は兄の松三郎(鷹山)が養子に望まれていたが、既に上杉家との養子縁組の交渉が進行中だったため、代わって弟の長次郎(晃長)が指名された[1]。
生来病弱であった晃長は、3年後の宝暦12年(1762年)2月4日に早世した。享年11。
継嗣はなく、秋月家と同様に相良家の縁戚に当たる大納言・鷲尾隆熙の子である頼完を新たな藩主として迎えた。しかし、頼完は晃長より年長で、さらに17歳未満では末期養子は認められないことから、人吉藩では無嗣断絶による改易を恐れて、晃長の病状は回復し、その後に頼完と改名したということにした。つまり、幕府には晃長と頼完を同一人物であるということにして処理し、さらに公式系譜も改竄した[注釈 1]。
系譜
[編集]父母
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 公式系譜を改竄しても、相良家の記録や藩内の史料では事実関係が記されており、後世に実態が伝わっている。
出典
[編集]- ^ 『お家相続 大名家の苦闘』p.124-125
出典
[編集]- 『お家相続 大名家の苦闘』 大森映子著 角川選書 ISBN 4047033685
- 「三百藩藩主人名事典4」(新人物往来社)
関連項目
[編集]- 末期養子#藩主のすり替えの例
- 黒田長堅、黒田長舒 - 秋月藩主。後者は晃長の甥(長兄秋月種茂の次男)にあたる。こちらも長堅の早世後に一時は公家の子弟を替え玉に迎えることが検討されたが、実行には至らず、一方で幼少の長堅が隠居して年長の長舒に跡を継がせるという願い出が認められている。