砂丘の戦い (1658年)

砂丘の戦い

砂丘の戦いシャルル=フィリップ・ラリヴィエール英語版作、1837年。ヴェルサイユ宮殿所蔵。
戦争西仏戦争
年月日1658年6月14日
場所スペイン領ネーデルラントダンケルク近く
結果:英仏連合軍の勝利[1][2]
交戦勢力
フランス王国の旗 フランス王国
イングランド共和国 イングランド共和国
スペイン スペイン王国
イングランド王党派
指導者・指揮官
フランス王国の旗 テュレンヌ子爵
イングランド共和国 サー・ウィリアム・ロックハート英語版
スペイン フアン・ホセ・デ・アウストリア
フランス王国の旗 コンデ公ルイ2世
スペイン カラセナ侯爵英語版
ヨーク公ジェームズ
戦力
15,000[3] 15,000[4]
損害
死傷者400[5] 死者1,000-1,200
傷者3,000
捕虜5,000[5]

砂丘の戦い(さきゅうのたたかい、英語: Battle of the Dunes)、またはダンケルクの戦い(ダンケルクのたたかい、英語: Battle of Dunkirk)は、1658年6月14日グレゴリオ暦)に起こった戦闘。当時の有名な将軍であるテュレンヌ子爵[6]率いるフランス軍とイングランド共和国の同盟軍がフアン・ホセ・デ・アウストリアコンデ公ルイ2世率いるスペイン軍、イングランド王党派、フロンドの乱の反乱軍に勝利した。西仏戦争および英西戦争英語版の一部であり、イギリス海峡の海岸にある、当時スペイン・ハプスブルク家ネーデルラントの要塞化した港口都市ダンケルク(オランダ語で「砂丘の教会」)で戦われた。フランス軍はダンケルクを包囲英語版しており、スペイン軍は包囲を解こうとしていた。

背景

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フランス軍とイングランド軍が両側に加わったことには複雑な理由があった。フランス王ルイ14世がイングランド護国卿オリバー・クロムウェルと同盟を組むと、当時亡命していたチャールズ2世ブリュッセル条約英語版でスペイン王フェリペ4世と同盟した。チャールズ2世はブリュージュに大本営を設けたが、スペインから提供した資金では5個連隊しか招集できなかった[7][8]ず、イングランド共和国への侵攻が現実的になるほどの軍勢を期待した王党派を失望させた。クロムウェルとルイ14世は1657年の条約を更新し、共和国からは歩兵6千と艦隊が援軍としてテュレンヌの許へ派遣された。またフロンドの乱の反乱軍からはコンデ公ルイ2世率いる援軍がスペイン側へ派遣された。

フランス軍1万5千と共和国軍6千はダンケルクを包囲した英語版。ダンケルクはスペイン私掠船の基地としては最大の港であり、これまでイングランドの商船は甚大な被害を受けていた[注 1]。1658年5月時点でのダンケルク駐留軍は3千人であり[9]、そこへイングランド艦隊18隻[10]エドワード・モンタギューを指揮官にしてダンケルク港を封鎖、海からの援軍と補給を阻止した。スペインとその同盟国はテュレンヌがカンブレーを攻撃すると思い込み、ダンケルクはただの目くらましと考えたため不意を突かれ、初動が遅れてしまった[11]。ダンケルクの住民は水門を開いて辺り一帯を水没させて対抗したが、テュレンヌは持ちこたえ、6月4日から5日にかけての夜に砲撃を開始した[10]

フアン・ホセ・デ・アウストリア

フアン・ホセ・デ・アウストリア率いるスペイン軍1万5千はダンケルクの救援に動き出した。スペイン軍は二手に分け、右側と中央にスペインのフランドル軍英語版を、左側にコンデ公率いるフロンドの乱の反乱軍を配置した。スペイン軍はスペイン人、ドイツ人、ワロン人部隊、そしてチャールズ2世のイングランド侵攻のために準備された、ヨーク公ジェームズ率いるイングランド人とアイルランド人の王党派2千人を含む。

包囲軍を約6千人残した[12]テュレンヌは進軍してスペイン軍と対峙した。そして、両軍は1658年6月14日に戦闘に突入した。この戦闘は後に「砂丘の戦い」として知られるようになるが、これはスペイン軍が海と垂直に並んでいる一連の砂丘に布陣したことが理由である。ナポレオン・ボナパルトはこの戦闘をテュレンヌの「最良の戦闘」[13]とみなした。クロムウェルの駐仏大使サー・ウィリアム・ロックハート英語版率いるニューモデル軍レッドコート英語版は高さ150フィートでスペインの精兵に守られていた砂丘へ勇猛果敢に突撃し、両軍を驚嘆させた[14][15][16][注 2]

経過

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戦闘は2時間ほど続き、正午にはテュレンヌが全面的に勝利し[17]、スペイン軍は潰走した。スペイン軍が死者1,200、負傷800[18]、捕虜4,000を出したのに対し、フランス軍は400人の損害しか出さず、うち半分はイングランド軍だった。クロムウェル軍のうちロックハートの歩兵連隊は戦闘で最も多く損害を出した。ロジャー・フェンウィック英語版中佐と大尉2人が戦死し、ほとんど全ての士官が負傷、さらに兵士40から50人が戦死した。リリングストン連隊は大尉1人と兵士30人から40人を失い、一方ほかの連隊の損害は軽微だった(その後イングランド軍の死傷者数が増えたが、これはフェンウィックのように戦傷で数週間苦しんだ末に死亡するケースが多かったことによる)[19][20][21]。フランス軍は夜まで追撃した。イングランド王党派の近衛部隊の一部[注 3]は持ちこたえ、イーペルでチャールズ2世と合流することを許されるまで降伏しなかった。ヨーク公の部隊はヨーク公自身が先頭に立って数回突撃し、大損害を被ったが持ちこたえた。戦闘の後も残った国王軍は1千以下であり、おそらく700か800を超えなかった[22]。フロンドの乱の反乱軍はコンデ公の指揮の許、秩序を保って撤退した。

その後

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スペイン側から見た砂丘の戦い、ジャン=アントワーヌ=シメオン・フォール英語版作、油画

テュレンヌはその後ダンケルクを落として、さらに進軍してフュルン英語版ディクスミュード英語版グラヴリーヌイープルアウデナールデと一連の町や城塞を落とした[23]。砂丘の戦いでの勝利とその影響はピレネー条約の締結につながり、10年間の西仏戦争を終わらせる結果となった。条約により、フランスはルシヨンペルピニャンモンメディ英語版アルトワ、そしてルクセンブルクの一部、アラスベテューヌグラヴリーヌティオンヴィルを含むフランドルの一部を獲得、スペインとの国境線をピレネー山脈と定めた[24]。またスペインに1648年のヴェストファーレン条約でフランスが獲得した領土を全て再確認することを義務付けた[24]

スペインの救援軍が敗北し、ダンケルクが陥落したことにより王党派のイングランドへの遠征の目が一時消えた。ダンケルクは戦闘から10日後の6月24日に降伏、マザラン枢機卿オリバー・クロムウェルとの条約を履行してダンケルクを共和国に引き渡した[22]。イングランドのフランドル派遣軍の戦役は終わらず、一部はサー・ウィリアム・ロックハートの指揮下でそのままダンケルクとマルディク英語版に駐留し、残りはサー・トマス・モーガンの指揮下でテュレンヌの軍とともに戦った。

フランスがアルトワを接収したことで、イングランドはスペイン私掠船の最大の基地を消滅させた[25]。これにより、商船の損害が大幅に減少した[26]。クロムウェルは戦闘から2か月後に死去、息子のリチャード・クロムウェル護国卿になったが僅か9か月で辞任した。共和国は混乱に陥り、1660年5月にはチャールズ2世が復位した。1662年、チャールズ2世はダンケルクを32万ポンドでフランスへ売却した[27]

脚注

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  1. ^ 例えば、同年にはイングランド船1,500から2,000がスペインに拿捕された(Rodger 2004, p. 28)。
  2. ^ イングランド軍は1642年のエッジヒルの戦い以来、戦闘について多くを学び (Niderost 1993Atkinson 1911, p. 404)、「1650年代にはクロムウェルの軍は世界中で最良だった」(Anderson 2009, p. 25)。
  3. ^ この連隊は近衛歩兵第一連隊、後のグレナディアガーズの中心となる(Tucker 2010, p. 214)。

出典

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  1. ^ Sandler 2002, p. 247.
  2. ^ Lopez 2012, pp. 32–33.
  3. ^ Fortescue 1899, p. 271.
  4. ^ Fortescue 1899, p. 270.
  5. ^ a b Davis 2001, p. 225.
  6. ^ Chisholm 1911a, p. 414.
  7. ^ EKBGD staff, Origins.
  8. ^ Birch 1742, pp. 384–399.
  9. ^ Davis 2001, p. 222.
  10. ^ a b Hozier 1885, p. 131.
  11. ^ Longueville 1907, p. 257.
  12. ^ Tucker 2010, p. 213.
  13. ^ Longueville 1907, p. 266.
  14. ^ Davis 2001, p. 223.
  15. ^  この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Fronde, The". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 11 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 248.
  16. ^ Plant 2008, Battle of the Dunes, 1658.
  17. ^ Tucker 2010, p. 214.
  18. ^ Hamilton 1874, p. 27.
  19. ^ Firth 1898, pp. 85–86 cites: Clarke Papers, iii. 154; Thurloe, vii. 156, 160 ; Cal. S. P., Dam. 1658-9, p. 97-
  20. ^ Firth 1909, p. 199.
  21. ^ Baker & Phillips 1733, p. 562.
  22. ^ a b Firth 1898, p. 86.
  23. ^ Longueville 1907, p. 267.
  24. ^ a b Maland 1991, p. 227.
  25. ^ Rodger 2004, p. 29.
  26. ^ Capp 1989, p. 103.
  27. ^ Grant 2010, p. 131 (map note).

参考文献

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