磯永吉
人物情報 | |
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生誕 | 1886年11月23日 日本広島県福山市 |
死没 | 1972年1月21日 (85歳没) |
出身校 | 東北帝国大学農科大学 |
学問 | |
研究分野 | 農学 |
研究機関 | 台北帝国大学 |
磯 永吉(いそ えいきち、1886年11月23日 - 1972年1月21日)は、日本の農学者、作物育種学者。台北帝国大学(現台湾大学)教授。台湾米(蓬萊米)の父と呼ばれた。農学博士(北海道大学・論文博士・1928年)(学位論文「台湾稲ノ育種学的研究」)[1]。
生涯
[編集]1886年、広島県福山市新馬場町生まれ。旧制日彰館中学(現・広島県立日彰館高校)を経て、1911年、東北帝国大学農科大学(札幌市)を卒業。
1912年に台湾へ渡り、台湾総督府農事試験場、中央研究所を経て、1930年、台北帝国大学教授に就任。日本統治下の台湾において、この後約半世紀にも及ぶ台湾米の品質改良に取り組んだ。当時の台湾は食糧不足の日本に台湾米を輸出していたが、長粒のインディカ種は粘りがなく日本人の口に合わなかった。そこで、至難の業といわれたジャポニカ米とインディカ米の交配を1000種以上の膨大な数を繰り返し、この困難を克服した。しかし、この交配種は食味が良くないため商品化されることは少なかった。その後、部下の末永仁技手によって「稲の老化防止法」が発見され、この科学的根拠をC/N比で解明、「若苗理論」として発表。これによって、台湾平地でのジャポニカ種の栽培が可能になった。
1945年の日本敗戦後も磯は請われて台湾に残り、中華民国農林庁顧問として蓬莱米の普及にあたった。「蓬莱米の父」と呼ばれ、47年にも及んだ台湾農業との付き合いを終え、1957年に帰国。帰国に際し、台湾政府は、毎年20俵の蓬莱米を終生磯に贈ることを約束し、深謝した。
研究内容・業績
[編集]- 当時至難の業といわれたジャポニカ米とインディカ米の交配を1000種以上の膨大な数を繰り返し、台湾米の品質改良に取り組んだ。育成した品種は214種にも及ぶ。1935年、台中農事試験場の場長だった末永仁技師と共同研究していた「「神力」{と「「亀治」の交配種が成功。「台中65号」と命名した。この品種は一期作二期作共に適応し、倒伏しにくく、施肥によろ収穫が増える「夢のような品種」であった。「台中65号」の開発に成功は多くの台湾農民に支持され、作付面積が急増した。大正15年、台湾総督伊沢多喜男は「台中65号」を含む台湾産のジャポニカ種全体和さす言葉として「蓬莱米」と命名し、台湾の農業発展に大きく貢献した。
- 李登輝は「台湾は二期作で6月に収穫できる強みがあった。6月は日本では端境期で米価が一番高い。「蓬莱米」の内地(日本)への販売は急増し、日本の米作農家が圧迫され、移出規制まで行われた。台湾の南部はサトウキビの植え付けが多かったが「蓬莱米」の作付けが急増した。嘉南平野は豊かになり、大変なお金を得た地主は農村組合に預金を預けたが、1940年頃から日本は台湾での製鉄など工業化に力を入れ始めた。その時にこの資金で産業銀行が設立され、台湾の産業高度化を下支えした。この構造は戦後も続き、1965年頃までは台湾の主な輸出品は「蓬莱米」と砂糖で、稼いだ外貨が工業化に転嫁され、奇跡といわれた経済成長を実現した」(要約)と「台湾は米とサトウキビの増産で稼いだ外貨によって工業化できた」という内容の講義を行っている[2]。ただし、「米糖相克」の問題を参照。
- 米以外にもサトウキビ、サツマイモ、小麦などの農作物、ブタや鶏など家畜の品種研究も手掛け、磯の研究は台湾のみならず広く東南アジアの農業にも貢献した。英文著書『亜熱帯における稲と輸作物』は亜熱帯農作物のバイブルともいわれる。
受賞・栄典
[編集]- 1961年:「日本学士院賞」が贈られている。
死後の顕彰・評価
[編集]- 台湾の書籍『影響台湾50人』(圓神出版社、2002年)では「台湾に影響を与えた50人」として明治天皇、後藤新平、八田與一らと共に日本人12人の一人として選ばれている。2012年には、磯と、農業技師の末永仁(すえなが めぐむ、1885-1939)の胸像が台湾大学に設置された[3]。
- 数々の業績と貢献に対して、日本農学会からも「農学賞」、大日本農会から「紅白有功賞」がおくられている。
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 続・日本の「農」を拓いた先人たち
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- 磯永吉小屋 旧高等農林学校作業室 台湾大学農芸学系と研究所のサイト