神戸寅次郎
神戸 寅次郎(かんべ とらじろう、元治元年12月27日(1865年1月24日) - 昭和14年(1939年)5月17日)は、日本の法学者。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。
人物
[編集]静岡県庵原郡松野村出身。静岡県松野小学校、県立静岡中学校、静岡英学校を経て1887年慶應義塾正科に入学[1]。1890年に新設された慶應義塾大学部法律科に入学し、ハーバード大学から派遣されたジョン・ヘンリー・ウィグモア教授のもとで学ぶ。同科を卒業した翌年の1892年に同教員となる。
慶應義塾第一回留学生に選ばれ、1899年8月から1902年12月にかけベルリン大学およびハレ大学で学ぶ[2]。学位論文「日本の合名会社」にてハレ大学からドクトル・ユーリスの学位を授与される。
1910年に慶應義塾大学部法律科主任、1917年に法律科学長、さらに1920年大学令による慶應義塾大学設立にあたり法学部長に就任し、1935年からは慶應義塾学事顧問を務めた[3]。1939年に亡くなるまで四十数年にわたり教鞭を執り続けた。
神戸が日本の民法学に及ぼした影響は、鳩山秀夫に「日本法律学の主流は本郷台を去って三田山上に移った」と言わしめるほどに絶大なものであった[4]。墓所は多磨霊園。
著書
[編集]- 『契約総則』(1915年、巌松堂書店)
- 『民法論纂』(1915年、巌松堂書店)
- 『契約解除論』(1922年、巌松堂書店)