秋山昌詮
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文20年(1551年)[注 1] |
死没 | 天正7年7月23日(1579年8月15日)[注 2] |
改名 | 源蔵(幼名)、昌詮 |
戒名 | 正山 |
墓所 | 山梨県甲州市の恵林寺 |
官位 | 左衛門佐 |
主君 | 武田信玄→勝頼 |
氏族 | 金丸氏→秋山氏 |
父母 | 父:金丸虎義、母:不明 養父:秋山虎繁(晴近) |
兄弟 | 金丸平三郎、土屋昌次、秋山昌詮(景詮)、金丸昌義(定光)、土屋昌恒、土屋正猶(金丸正直)、秋山景氏(親久) |
秋山 昌詮(あきやま まさのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。『寛政重修諸家譜』では景詮とする[1]。甲斐武田氏の家臣[1]。左衛門佐[1][2]。
略歴
[編集]金丸虎義の三男として誕生[2]。諱は、『甲斐国志』では昌詮[注 3][2]、『寛政重修諸家譜』では景詮とする[1]。
秋山虎繁(晴近。伯耆守)に男子なく、その養子となる[2][1]。甲斐国大崎城を預かった[1]。『甲陽軍鑑』に拠れば駿河侵攻や西上野侵攻などで活躍したが、若くして病死したという。29歳[1][2]。法名は正山[1]。
駿河国富士郡(現・静岡県富士宮市)の富士山本宮浅間大社に奉納された『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』は天正5年1月から5月の間に成立したと考えられており、神馬を奉納した武田家臣の中に「秋山左衛門尉」の名が見られる。
末弟・親久(景氏)が跡を継いだ[1][2]。恵林寺(現・山梨県甲州市塩山小屋敷)に葬られ、養父と並んで墓がある。
兄弟
[編集]○出典:『寛政重修諸家譜』[3]