秋田映季

 
秋田 映季
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 安政5年2月1日1858年3月15日
死没 明治40年(1907年2月19日
改名 万之助(幼名)→映季
戒名 瑞雲院殿春光映季大居士
墓所 福島県田村郡三春町荒町の高乾院
官位 従五位下、従三位信濃守、子爵
幕府 江戸幕府
陸奥三春藩
氏族 秋田氏
父母 父:秋田肥季
正室:山内豊福の娘)
継室:竜子池田徳潤の娘)
芳子(秋田重季正室)
養子:重季
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秋田 映季(あきた あきすえ)は、江戸時代末期から明治時代の大名政治家陸奥三春藩の第11代(最後)の藩主。秋田家第13代当主。

生涯

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安政5年(1858年)2月1日、第10代藩主・秋田肥季の次男として生まれる。慶応元年(1865年)8月5日、父の死去により家督を相続した。幼少のために叔父の季春が後見し、藩政を取り仕切った。慶応3年5月4日、江戸を出発し、三春に向かう。

慶応4年(1868年)4月4日、奥羽鎮撫総督府から会津出兵への準備を命じられる。閏4月1日、庄内出兵を命じられる。閏4月3日、藩兵の少なさを理由に庄内出兵を辞退し、会津出兵のみにすることを願う。その後、奥羽越列藩同盟の結成にともない、小藩のために主体的な行動を取れず、新政府側と袂を分かつことになる。7月26日、新政府軍の侵攻にともない降伏する。河野広中らが藩論を転換させたという。8月7日、謹慎をとかれる。明治2年(1869年)6月の版籍奉還知藩事となり、明治4年7月(1871年)の廃藩置県で免官された。その後、慶應義塾において洋学を修めた。

明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵[1]。明治23年(1890年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[2]、明治30年(1897年)10月25日、貴族院議員を辞職した[2][3]辞職の理由は、夫人の自殺、娘の不品行など、家政の混乱によるものだった。[要出典]明治40年(1907年)2月19日、49歳で死去した。家督は婿養子の重季伯爵大原重朝の次男)が継いだ。

家族

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父母

子女

養子

脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  2. ^ a b 『議会制度百年史-貴族院・参議院議員名鑑』33頁。
  3. ^ 『官報』第4298号、明治30年10月27日。
  4. ^ a b c d 子爵秋田重季『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史-貴族院・参議院議員名鑑』1990年。


当主
先代
秋田肥季
秋田家
13代
1865年 - 1907年
次代
秋田重季
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
三春秋田家初代
1884年 - 1907年
次代
秋田重季