立花長煕
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保5年7月17日(1720年8月20日) |
死没 | 安永7年閏7月2日(1778年8月23日) |
改名 | 弥七郎(幼名)、長煕 |
戒名 | 明徹院殿実相紹真大居士 |
墓所 | 東京都台東区下谷の広徳寺 |
官位 | 従五位下和泉守、民部 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 筑後三池藩主 |
氏族 | 立花氏 |
父母 | 父:立花貫長、母:島津惟久の娘・養信院 |
兄弟 | 長煕、黒田直巷、直尹、応興、能勢頼紀婚約者、青山幸充継室、加納久堅正室、立花種秀養女、屋山継平室ら |
妻 | 正室:堀直英の娘・於豊 |
子 | 弥七郎、種周、勝次郎、長堅、安部信旨、種武、堀直皓、三宅康武正室ら |
立花 長煕(たちばな ながひろ)は、筑後国三池藩の第5代藩主。
略歴
[編集]享保5年(1720年)7月17日、第4代藩主・立花貫長の長男として生まれる。延享4年(1747年)、父の死去により家督を継いだ。同年12月19日、従五位下、和泉守に叙任する。
宝暦12年(1762年)9月26日、次男・種周に家督を譲って隠居し、安永7年(1778年)閏7月2日に死去した。享年59。
系譜
[編集]父母
正室
- 於豊、法明院 ー 堀直英の娘
子女
- 立花弥七郎(長男)
- 立花種周(次男)生母は法明院(正室)
- 立花長堅(四男)
- 安部信旨(五男)生母は法明院(正室)
- 立花種武[1](六男)生母は法明院(正室)
- 堀直皓[2](七男)生母は法明院(正室)
- (八男)
- (九男)
- 立花勝次郎
- 三宅康武正室後に宮原義潔室