第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会
開催国 | 日本 |
---|---|
開催期間 | 1938年6月17日-19日 |
参加チーム数 | 5 |
優勝 | 早稲田大学 |
準優勝 | 慶應義塾大学 |
試合総数 | 4 |
ゴール数 | 21 (1試合平均 5.25点) |
← 1937 1939 → |
この項目では1938年6月17日から19日まで開催された全日本蹴球選手権大會(ぜんにほんそうごうしゅうきゅうせんしゅけんたいかい)について記載する。なお、本大会は天皇杯全日本サッカー選手権大会の第18回大会に当たる。
概要
[編集]本大会には4地区の予選を経た5チームが参加。関東予選は2組に分けて実施され、A組決勝は慶應義塾大学(現役学生からなる)が東京文理科大学を6-1で下し、B組決勝は早稲田大学が慶應BRB(現役・OB混成からなる)を4-0で下した[1]。
朝鮮予選決勝の全延禧対全普成は、延長の末に全延禧が6-4で勝った。全延禧は前半だけで4-0とリードしていたが、後半に入ってから全普成が4点差を追いつき、延長戦にもつれこんだ。第4回延長の前半と後半に全延禧が1点ずつを挙げ、170分におよぶ激戦を制した[1]。
試合は1回戦の関西学院大学対名古屋高専のみ帝大球場、そのほかはすべて明治神宮外苑競技場で行われた。
準決勝では早稲田大学と優勝候補の筆頭とされていた全延禧が対戦した。早稲田が前後半に1点ずつを挙げて2点リードしたところから全延禧が追いつき、延長戦でも決着はつかなかったため、抽選によって早稲田の勝ち抜きが決まった[1]。早慶戦となった決勝では、前半5分に慶應が先制したが、前半25分には早稲田が逆転、その後も早稲田が点を重ねて4-1で勝利した[1]。
出場チーム
[編集]- 慶應義塾大学(関東A、2年連続3回目) - 準決勝から
- 早稲田大学(関東B、初出場) - 準決勝から
- 名古屋高専[注 1](東海、初出場)
- 関西学院大学(関西、2年ぶり4回目)
- 全延禧(朝鮮、初出場) - 準決勝から
結果
[編集]1回戦 | 準決勝 | 決勝 | ||||||||
1938年6月17日、16:00 (主審:松丸) | ||||||||||
関西学院大学 | 5 | |||||||||
1938年6月18日、13:00 (主審:高山(忠)) | ||||||||||
名古屋高専 | 0 | |||||||||
関西学院大学 | 2 | |||||||||
慶應義塾大学 | 5 (aet) | |||||||||
1938年6月19日、14:00 (主審:高山) | ||||||||||
慶應義塾大学 | 1 | |||||||||
早稲田大学 | 4 | |||||||||
1938年6月18日、15:00 (主審:竹腰) | ||||||||||
全延禧 | 2 | |||||||||
早稲田大学(抽選勝ち) | 2 (aet) | |||||||||
決勝戦メンバー
[編集]
|
|
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)、名古屋高等理工科学校/名古屋専門学校(現・名城大学)等が考えられるが、前者は第8回大会に出場しているため今回が初出場ではなく、後者は第53回大会において初出場となっているため、いずれにせよ矛盾が生じる。尚、名古屋高等工業学校が名古屋工業専門学校(名古屋工専)と名乗っていたのは1944-1948年で、名城大学の前身である名古屋専門学校が設置されたのは1947年である。"高専"を高等専門学校の意と解釈すれば、名古屋高等工業学校に加え、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)も候補に含まれるが、こちらも第15回大会に出場していることから今回が初出場ではない。
出典
[編集]参考文献
[編集]- “蹴球 第六巻 第一号” (PDF). pp. 3-6頁 (1938年). 2009年9月6日閲覧。
- 第94回天皇杯全日本サッカー選手権大会大会パンフレット (p. 55)