肝付兼屋
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和5年(1619年) |
死没 | 延宝3年4月29日(1675年5月23日) |
別名 | 通称:伴兵衛、三郎四郎 |
主君 | 島津忠恒→光久 |
藩 | 薩摩喜入領主 |
氏族 | 喜入肝付氏 |
父母 | 父:肝付兼武、母:渋谷重将娘 |
妻 | 正室:島津忠恒娘 |
子 | 久兼、男子、佐多久利 |
肝付 兼屋(きもつき かねいえ)は、江戸時代前期の薩摩藩士。喜入肝付氏3代当主。
喜入肝付氏は肝付氏12代・肝付兼忠の三男・兼光を祖とする庶流。
元和5年(1619年)、肝付兼武の子として生まれる。寛永2年(1625年)、父の死去により家督相続する。
寛永4年(1627年)、藩主・島津家久の面前で元服する。寛永15年(1638年)、島原の乱に出陣する。寛永16年(1639年)、藩主・光久の妹を室に迎える。正保4年(1647年)、将軍・徳川家光の命で、藩主光久が武蔵王子で犬追物を開催し、射手として参加する。将軍家光、世子家綱に拝謁し時服を賜る。
慶安2年(1649年)、領内の一向宗と切支丹を禁止する。慶安4年(1651年)、小根占地頭職。承応2年(1653年)、領内に館を新設する。明暦元年(1656年)、正室の化粧領として550石を賜る。寛文2年(1662年)、大目付職となる。寛文4年(1664年)、頴娃地頭職。寛文5年(1665年)、小禰寝地頭職。寛文8年(1668年)、帖佐地頭職。
延宝3年(1675年)4月29日没。享年57。家督は嫡男・久兼が相続した。
参考文献
[編集]- 「喜入村郷土史」