良岑衆樹
時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 貞観4年(862年) |
死没 | 延喜20年9月24日(920年11月7日) |
官位 | 従四位上・参議 |
主君 | 陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 良岑氏 |
父母 | 父:良岑晨直 母:丹波氏または丹治氏娘 |
兄弟 | 衆樹、善樹 |
子 | 義方 |
良岑 衆樹(よしみね の もろき)は、平安時代前期の貴族。良岑安世の孫で、左中弁・良岑晨直[1](または農直[2])の次男。従四位上・参議。
官歴
[編集]和暦 | 西暦 | 叙位任官など | 年齢(数え年) |
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元慶3年1月17日 | 879年2月11日 | 馬寮左馬少允 | 18歳 |
元慶8年5月7日 | 884年6月3日 | 左馬権大允 | 23歳 |
寛平2年4月15日 | 890年5月7日 | 左近衛将監 | 29歳 |
寛平7年3月28日 | 895年4月26日 | 兼東宮主馬首 | 34歳 |
寛平8年1月26日 | 896年2月13日 | 兼播磨少掾 | 35歳 |
寛平9年2月14日 | 897年3月20日 | 兼越前大掾 | 36歳 |
寛平9年7月7日 | 897年8月8日 | 蔵人(六位蔵人) | 36歳 |
寛平9年7月13日 | 897年8月14日 | 従五位下 | 36歳 |
寛平9年7月16日 | 897年8月17日 | 蔵人(五位蔵人) | 36歳 |
寛平9年12月13日 | 898年1月9日 | 右兵衛佐 | 36歳 |
昌泰2年1月11日 | 899年2月24日 | 内蔵権助 | 38歳 |
昌泰2年4月2日 | 899年5月15日 | 右近衛少将 | 38歳 |
昌泰4年2月19日 | 901年3月12日 | 兼近江介 | 40歳 |
昌泰4年3月15日 | 901年4月6日 | 内蔵頭 | 40歳 |
延喜2年1月7日 | 902年2月17日 | 従五位上 | 41歳 |
延喜5年1月11日 | 905年2月17日 | 兼伊予介 | 44歳 |
延喜5年10月17日 | 905年11月16日 | 主殿頭 | 44歳 |
延喜7年1月7日 | 907年2月21日 | 正五位下 | 46歳 |
延喜8年2月23日 | 908年3月27日 | 兼備前介 | 47歳 |
延喜9年4月23日 | 909年5月15日 | 左近衛少将 | 48歳 |
延喜10年1月7日 | 910年2月19日 | 従四位下 | 49歳 |
延喜10年1月21日 | 910年3月5日 | 昇殿 | 49歳 |
延喜11年1月13日 | 911年2月14日 | 右近衛権中将 | 50歳 |
延喜12年1月15日 | 912年2月5日 | 兼備前守 | 51歳 |
延喜15年1月7日 | 915年1月24日 | 従四位上 | 54歳 |
延喜15年1月15日 | 915年2月1日 | 兼近江権守 | 54歳 |
延喜15年8月19日 | 915年9月30日 | 蔵人頭 | 54歳 |
延喜16年3月28日 | 916年5月2日 | 右近衛中将 | 55歳 |
延喜17年1月29日 | 917年2月23日 | 参議 | 56歳 |
延喜17年5月20日 | 917年6月12日 | 兼伊予権守 | 56歳 |
延喜18年1月16日 | 918年3月1日 | 兼近江守 | 57歳 |
延喜19年6月3日 | 919年7月2日 | 兼治部卿 | 58歳 |
延喜20年9月24日 | 920年11月7日 | 卒去(参議宮内卿)[3] | 59歳 |
逸話
[編集]50歳になるまで微官に留まっていた衆樹は、ある時、雨の中苦労して坂を登って石清水八幡宮に参詣した。その際、神社の前に橘の老木が茂っていたの見つけ、この橘の木のように自ら(衆樹)も老いてしまった、との趣旨の和歌を詠んだ。これを聞いた八幡神が哀れんで、その情けにより、橘の木は茂り栄え、衆樹も栄職である蔵人頭に任官されたという(『大鏡』[4])。