荻原昌之
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文2年(1533年) |
死没 | 天正16年5月10日(1588年6月3日)[1] |
別名 | 甚之丞、馬丞、源八郎 |
戒名 | 道輝(法名) |
墓所 | 恵林寺 |
主君 | 武田信玄→武田勝頼→徳川家康 |
氏族 | 清和源氏甲斐武田氏支流荻原氏 |
父母 | 父:荻原正明(荻原豊前守昌明)、母:板垣信形娘 |
兄弟 | 昌之、昌平、昌重、下島與政 |
子 | 昌友、娘(平岡次郎右衛門妻)、娘(岡登次郎兵衛妻) |
荻原 昌之(おぎわら まさゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏が滅んだ後、徳川家に従った。
略歴
[編集]荻原昌勝の一族。『甲陽軍鑑』の記事に拠ると、荻原氏は甲斐国山梨郡荻原(旧東山梨郡三富村)の国境秩父口の防備を勤めた一族で、その子孫とされる家が武田信玄に仕えた。武田信玄陣立書によると旗本の横目衆に属している。
天正10年(1582年)3月に織田信長・徳川家康連合軍の武田征伐による甲斐武田氏滅亡後、徳川家康から荻原本領を安堵され[2]甲州九口之道筋奉行に命じられる。天正12年(1584年)長久手の戦いに従軍。天正16年(1588年)5月10日、56歳で死去[1]。
なお、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉に仕えた財政家・荻原重秀はこの荻原氏の一族である。
系譜
[編集]子孫は八王子千人同心千人頭として明治期まで存続。