菊池武敏
時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 興国2年/暦応4年(1341年)? |
別名 | 九郎(通称) |
官位 | 従三位(大正4年)、掃部助 |
主君 | 菊池武重→菊池武士 |
氏族 | 菊池氏 |
父母 | 父:菊池武時 |
兄弟 | 武重、頼隆、隆舜、武茂、武澄、武吉、武豊、武敏、武光、武隆、武士、武尚、武義、乙阿迦丸、了心素覚 |
子 | 詫摩武平 |
菊池 武敏(きくち たけとし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての南朝の武将。菊池氏第12代当主・菊池武時の九男。第13代当主・菊池武重の弟。通称は菊池九郎。
生涯
[編集]父の戦功により、後醍醐天皇より掃部助に任じられた。建武2年(1335年)、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆したとき、武敏は本国にあって足利側に与した少弐貞経を攻め、苦戦したもののこれを破った。さらに勝勢に乗じて多々良浜の戦いで足利軍と戦った。この戦いでは兵力的には武敏側が優勢であったが、所詮は寄せ集めに過ぎなかったため、肥前国の松浦氏などが離反したために大敗を喫し、与党の阿蘇惟直、蒲池武久は戦死し、武敏自身は命からがら本国に逃れた。尊氏が主力軍を率いて九州から東上すると、九州各地の足利軍と戦った。
没年は詳しく分かっていないが、兄・武重の死後、その後を継いだ武士を後見していたと推測される。没年は不詳だが、恐らくは武士が当主の時代に死去したものと思われる。
子孫は各地に分かれ、越中国・伊予国・陸奥国で繁栄した。
大正4年(1915年)11月10日、従三位を贈られた[1]。
脚注
[編集]- ^ 新井淳一『菊池一族』鬼沢書店、1943年、31頁