菖蒲城
菖蒲城(しょうぶじょう)は、埼玉県久喜市菖蒲町新堀(武蔵国埼玉郡新堀村)にあった日本の城。古河公方足利成氏が、康正2年(1456年)に金田式部則綱に命じて築城させた。城の竣工が5月5日の菖蒲の節句にであったために命名された。天正18年(1590年)小田原征伐ののち廃城となり、以降は徳川家康に仕えた内藤正成が栢間陣屋(現在の久喜市菖蒲町下栢間)を構えて5700石を知行し、上級旗本として14代、幕末まで同地を治めた。
歴史・沿革
[編集]享徳4年(1455年)6月、足利成氏が室町幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉より古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述があり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説も有力。城主の金田氏は菖蒲佐々木氏ともいわれ、近江国佐々木氏の末裔されるが詳細は不明。初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城主成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。その後子孫は帰農し大塚姓を称した。金田氏の墓所は曹洞宗久林山永昌寺にある。
考古資料
[編集]遺構
[編集]菖蒲園の入り口には旗本内藤家栢間陣屋裏門が1998年に移築されている。明治政府により陣屋は破却されたが、裏門は領内の名主だった三須家に引き取られていた。
現在は遺構は残っていないが、1996年にバス停建設による埼玉県道12号川越栗橋線の拡幅工事前の発掘調査が実施され、平安時代の竪穴建物跡や中世の堀と土塁状の遺構が出土。
遺物
[編集]上記発掘調査により、14世紀の常滑産の甕や板碑(延文6年・1361年銘を含む)、16世紀の石臼や石硯、鉄砲の弾丸、大量の土器、陶磁器、永楽通宝などの古銭が出土した。
ギャラリー
[編集]- 菖蒲城址の石碑
観光
[編集]アクセス
[編集]周辺
[編集]- 城址には菖蒲園があり、35,000株の菖蒲が植えられている。
文献
[編集]- 埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書 第232集 南埼玉郡 菖蒲町 『菖蒲城』 主要地方道川越栗橋線関係埋蔵文化財発掘調査報告 1999年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 「菖蒲4時間コース」 久喜市観光ウォーキングマップ 久喜市ホームページ(PDFファイル)
- 菖蒲城(ザ・登城) - ウェイバックマシン(2016年3月5日アーカイブ分)
- 「菖蒲城」 - 城の道ホームページ
- 「菖蒲城」 - さいたまなび ホームページ
座標: 北緯36度3分42.2秒 東経139度35分39.5秒 / 北緯36.061722度 東経139.594306度