萩原三圭
萩原 三圭(はぎわら さんけい、1840年12月4日(天保11年11月11日)- 1894年(明治27年)1月14日)は、江戸時代土佐藩の医師、明治天皇の内親王の御典医。青木周蔵と並び、日本初のドイツベルリン大学医学生。諱は守教(もりのり)、また慮庵、象堂と号す。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]町医・萩原静安(復斎)の嫡男として土佐国土佐郡一宮村(現在の高知県高知市一宮)に生まれる。母は田内氏の娘。生年月日とも「十一(土)」であるため「三圭」と洒落て雅号にした。
天保14年(1843年)、父静安がおこぜ組の獄に連座して高知城下の小高坂・潮江・井口・江ノ口の4村で禁足処分となり、香美郡深淵村(現在の香南市野市町深淵)へ転居したため、これに伴って深淵に移る。静安は嘉永3年5月25日(1850年7月4日)、土佐国幡多郡にて種痘を行いその医術の名声が広まり、万延元年12月26日(1861年2月5日)、禁足処分を解かれて三人扶持を下し置かれ、格式御用人格にて召し出され藩医となった。
安政3年(1856年)頃、三圭は高知城下で細川潤次郎に蘭学を学び、安政6年2月25日(1859年3月29日)、大坂の適塾で緒方洪庵に遊び、塾頭長与専斎と交誼を結んだ。土佐に戻って蘭学を教えるが、東洋のルソーといわれる中江兆民が三圭の門下生として学んだ[1]。
長崎へ
[編集]慶応元年(1865年)、長崎に出て精得館(長崎養生所の後身)で、オランダ人医師のアントニウス・ボードウィンに師事し、慶応2年7月14日(1866年8月23日)からはコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに就いて西洋医学を修めた。何礼之が元治元年(1864年)に長崎で開いた私塾(何礼之塾)でも学んだ[1]。
留学
[編集]慶応3年5月20日(1867年6月22日)、長崎で当分御雇を以て御臨時御用を仰せ付けらるよう、後藤象二郎より命ぜられる[2]。さらに同年6月15日(太陽暦7月16日)、洋夷修行方を仰せ付けられた[3]。
戊辰戦争さなかの慶応4年8月20日(1868年10月5日)前後、三圭はプロシアで医学伝習のため、長州藩士・青木周蔵と共に長崎を出航した。明治2年1月(1869年2月下旬~3月上旬)、フランスの国都パリに着き、3か月留まったのちにドイツに到着し、日本人として初めてベルリン大学に留学した。
医学校の校長として
[編集]明治6年(1873年)7月、文部理事官・田中不二麿に随行していた欧州視察中の長与専斎と再会し、医学東校の解剖学教授として招聘され、ドイツ人解剖学者のヴィルヘルム・デーニッツを伴って帰国。文部省出仕を命じられ、医学校に奉職した。明治7年(1874年)12月、デーニッツと共に東京医学校教授(東京大学医学部の前身)に任ぜられたが、間もなく退官した。明治8年(1875年)、京都療病院に奉職し、明治12年(1879年)に附属医学校(京都府立医科大学の前身)の創設にあたってその監学(校長)となった。
旧藩主の典医として
[編集]明治14年(1881年)同校を辞して翌明治15年(1882年)東京に戻り、旧土佐藩主・山内豊範侯爵の主治医となった。この時、豊範の子山内豊景が病を得ており、他の医師がこれを治療できず生命の危機にあったところ、三圭によって快復を果たした。豊範は感謝して報酬を申し出たが、三圭はこれを再三固辞し「自分は豊範侯のおかげで学問の一端を修めることができたが、いまだその道半ばである。もし今回のことで報酬を受けられるのであれば、学問を最後まで全うしたい」と申し出、豊範もこれを許した。
再留学
[編集]明治17年(1884年)8月、三圭は再びドイツに留学し、森林太郎(森鷗外)・長與稱吉らと共にライプツィヒ大学で医学全科を学んだ。この時の留学メンバーは三圭と鴎外・長與に加え、片山国嘉・丹波敬三・田中正平・宮崎道三郎・隈川宗雄・穂積八束・飯盛挺造の合計10名。後に鴎外はこの10名を題材に「日東十客歌」を書いている[4]。
皇太子・内親王の典医として
[編集]明治19年(1886年)、ドクトル(医学博士)の学位を得て帰国し、宮内省侍医局に奉職。明治20年(1887年)、明治天皇皇女・久宮静子内親王の侍医となり、皇太子明宮(大正天皇)、常宮昌子内親王、周宮房子内親王付き侍医に任ぜられた[5]。
明治27年(1894年)1月14日死去。葬儀の列席者は数百人に及んだ。墓は東京の谷中霊園の乙3号15側6番にあり、「故侍医萩原三圭之墓」と彫られている。
家族
[編集]- 父:萩原静安(復斎)
- 母:田内氏の娘(亀)
補註
[編集]- ^ a b 村瀬寿代「長崎におけるフルベッキの人脈」『桃山学院大学キリスト教論集』第36号、桃山学院大学総合研究所、2000年3月、63-94頁、ISSN 0286973X、NAID 110000215333。
- ^ 『岩崎弥太郎日記』慶応3年(1867年)5月20日條「萩原静安ノ子三圭、当分御雇ヲ以、御臨時御用被仰付様、参政(後藤象二郎)より被命」
- ^ 『岩崎弥太郎日記』慶応3年(1867年)6月15日條「萩原三圭、洋夷修行方被仰付之」
- ^ 『鴎外留学始末』1999年、5項
- ^ 明治16年と同21年の上申書からみた明治天皇皇子女夭折問題深瀬泰旦、日本医史学雑誌 第61巻第2号(2015)
- ^ “萩原三圭(はぎわらさんけい)”. 谷中・桜木・上野公園 路地裏徹底ツアー. 2005年6月5日閲覧。
参考文献
[編集]- 『故ドクトル萩原三圭小傳』(所収『中外医事新報』333号、1894年2月5日号)
- 『萩原三圭の留学』富村太郎、郷学舎、1981年
- 『近世土佐の群像(2) 萩原三圭のことなど』渋谷雅之、2008年
- 『三百藩 家臣人名事典 第6巻』同・編纂委員会編、新人物往来社
- 『日本人名大事典』平凡社
- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1971年
- 『土佐医学史考』平尾道雄、高知市民図書館、1977年