鹿島萩麿
萩麿王 鹿島萩麿 | |
---|---|
山階宮家・鹿島伯爵家 | |
1926年(大正15年)頃撮影 | |
続柄 | |
身位 | 王 → 伯爵(華族) |
敬称 | 殿下 → 閣下 |
出生 | 1906年4月21日 日本・東京府東京市 |
死去 | 1932年8月26日(26歳没) 日本・神奈川県鎌倉市、長谷別邸 |
子女 | 鹿島晃久(養子) |
父親 | 山階宮菊麿王 |
母親 | 菊麿王妃常子 |
役職 | 貴族院議員 |
鹿島 萩麿(かしま はぎまろ、1906年(明治39年)4月21日 - 1932年(昭和7年)8月26日)は、日本の元皇族。華族。山階宮菊麿王第四王子。母は菊麿王妃常子。日本海軍の軍人、最終階級は海軍大尉。旧名:萩麿王。
生涯
[編集]学習院中等科、海軍兵学校予科を経て、1926年(大正15年)3月、海軍兵学校(海兵54期)を卒業。同年4月20日、貴族院皇族議員に就任[1]。翌年10月1日海軍少尉に任官するとともに勲一等旭日桐花大綬章を受ける[2]。戦艦「伊勢」乗組となる。また遠洋航海が終了した同年6月13日頃から、兵学校時代より関心のあったユトランド海戦の研究に着手する[3]。
1928年(昭和3年)1月20日、一三式練習機を操縦して航空術講習を修了する[4]。同年7月1日付で、願により臣籍降下が認められ、鹿島の家名を賜り伯爵に叙せられる[5][注釈 1]。降下に伴い、同月20日、貴族院議員資格も消滅した[6][7]。
同月戦艦「榛名」乗組となり、以後横須賀鎮守府付、海軍大学校服務(戦史研究)などを経て、1929年(昭和4年)11月、海軍中尉に進級。海大選科学生(戦史研究)として学び、横須賀航空隊付となる。
しかし、健康を害したため1932年(昭和7年)3月に待命となった[4]。同年7月15日付で生涯唯一の著書『ジュトランド海戦史論』の序文を、静養先の鎌倉で書き上げた[8]。同年8月26日[9]、急性腹膜炎のため長谷別邸(鎌倉市)にて死去[10]。満26歳だった。海軍大尉に没時進級した。墓所は多磨霊園(墓じまいにより合葬埋葬施設に改葬)[11]。
逝去後、1932年(昭和7年)10月に遺産が東京養育院及び東京養老院に寄付された[10]。1934年(昭和9年)4月に「伯爵鹿島萩麿記念奨学基金」が、萩麿の遺志に基づき後見人である兄筑波藤麿によって創設された[12]。同年に『ジュトランド海戦史論』が刊行された。
血縁
[編集]栄典
[編集]- 1927年(昭和2年)10月1日 - 勲一等旭日桐花大綬章[2]
関連書籍
[編集]- 自著
- 伝記
参考文献
[編集]- 鹿島萩麿『ジュトランド海戦史論』神田嘉穂、1934年。全国書誌番号:47000645。
- 東洋文化協会 編『皇室皇族聖鑑』 昭和篇、東洋文化協会、1937年。全国書誌番号:46052214。(NDLJP:1206852)
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 兄の藤麿王と同日付である
出典
[編集]- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、36頁。
- ^ a b 『官報』第230号「叙任及辞令」、昭和2年10月3日(NDLJP:2956690/2)
- ^ ジュトランド海戦史論 1934 p.1
- ^ a b 皇室皇族聖鑑(昭和篇) 1937 p.169(NDLJP:1206852/197)
- ^ 昭和3年宮内省告示第14号(『官報』第470号、昭和3年7月21日)(NDLJP:2956931/2)
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、37頁。
- ^ 『官報』第471号「帝国議会」、昭和3年7月23日(NDLJP:2956932/5)
- ^ ジュトランド海戦史論 1934 p.3
- ^ 『官報』第1700号「彙報」、昭和7年8月29日(NDLJP:2958171/3)
- ^ a b 皇室皇族聖鑑(昭和篇) 1937 p.170(NDLJP:1206852/198)
- ^ “鹿島萩麿”. www6.plala.or.jp. 2024年12月2日閲覧。
- ^ 帝国学士院編『学術研究奨励資金及事業便覧 昭和10年度』帝国学士院、1934年。全国書誌番号:47009877。 (NDLJP:1138733/13)
関連項目
[編集]日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 創設 | 伯爵 鹿島家初代 1928年 - 1932年 | 次代 鹿島晃久 |