藤井帰一郎

藤井 帰一郎(ふじい きいちろう、1860年万延元年11月) - 1942年昭和17年)9月18日[1])は、日本教育者。現在の秋田県大仙市内小友出身。

来歴

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内小友村宮林新田村出身で、小松清兵衛の次男。1878年(明治11年)、秋田師範学校の第一期生。郡内(現在の秋田県の市町村)の小学校訓導を歴任し、六郷町本道町の町医者・藤井玄瑞(げんずい)の養子となり、1883年(明治16年)12月、長女タケと結婚。1887年(明治20年)に六郷町上町(かみまち)に分家[2]

1884年(明治17年)、独立新校舎が建った六郷小学校へ着任し、1889年には校長となった。以来、1922年(大正11年)までの約43年間に県の視学官なども歴任しながら、3度に渡り、六郷小学校の校長を務めた。同時に県教育会の副会長として、県教育の振興に尽くした。友会では岩屋順太郎、熊谷と並ぶ専任講師だった。

新たに入学式と教育規定を制定し、校歌や国旗の保護者会の創設など、県下の教育界をリードする教育実践を展開した。1908年(明治41年)、高等科3年を設け、郡内で初の9年修行を実施した。現在の六郷町の学校教育の基礎を築いた人物である。

親族

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  • 義父・藤井玄瑞は、「ゲンジ」さんと呼ばれていた町医者。六郷町における医者が3代続いた家系。
  • 玄瑞の長男で、タケの弟・藤井新八郎は義弟である。新八郎は、のちの六郷町の町長となる。
  • 新八郎は、画家の小西正太郎と姻戚関係(義弟)にあたる[3]
  • 藤井達次 - 新八郎の次男。1904年(明治37年)生で、北海道帝国大学農科を卒業後、東京医学歯学専門学校(現・東京医科歯科大学)に進み医師となる。1929年(昭和4年)に秋田女子師範学校(現・秋田大学教育学部)で生物学を講じた。1963年(昭和38年)以降は、男鹿保健所長をつとめた。

脚注

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  1. ^ 『秋田人名大事典』秋田魁新報社、1974年、p.331。
  2. ^ 『秋田人名大事典(第二版)』[要ページ番号]
  3. ^ 藤井達次. “人・その思想と生涯 (7)”. 2019年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月12日閲覧。

参考文献

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  • 『六郷町史』[要文献特定詳細情報]
  • 井上隆明(監修) 著、秋田魁新報社 編『秋田人名大事典(第二版)』秋田魁新報社、2000年7月。ISBN 4-87020-206-9 
  • 六郷町史編纂委員会(編纂)『鐘はかたり 清水はささやく』(六郷町小史)、2004年