藤原信通
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 寛治5年(1091年) |
死没 | 保安元年10月21日(1120年11月13日) |
官位 | 従三位、参議、左近衛中将 |
主君 | 白河上皇→堀河天皇→鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流 |
父母 | 父:藤原宗通、母:藤原顕季の娘 |
兄弟 | 宗子、信通、伊通、季通、成通、重通、定通、良延、宗海、伊覚 |
妻 | 藤原基隆の娘 |
子 | 行通、信経、藤原公隆室、藤原光隆室 |
藤原 信通(ふじわら の のぶみち)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中御門流、権大納言・藤原宗通の長男。官位は従三位・参議、左近衛中将。
経歴
[編集]康和2年(1100年)10歳にして従五位下に叙爵。康和4年(1102年)正月に侍従に任ぜられ、昇殿を聴される。同年2月、さらに白河院昇殿を聴され、6月には院別当に補任された。同年7月には院の御給で従五位上に叙せられ、康和5年(1103年)白河院の孫にあたる皇太子宗仁親王(後の鳥羽天皇)家の昇殿を聴されるなど、白河院に接近した。康和6年(1104年)院別当として正五位下に進み、右近衛少将に任官。長治2年(1105年)にはさらに院の御給で従四位下に叙せられ、伊予権介を兼ねた。
嘉承2年(1107年)従四位上に昇叙。天仁元年(1108年)従四位上・左近衛中将に叙任され、天仁2年(1109年)には美作介を兼任。永久2年(1114年)、さらに周防介を兼ねて禁色を聴される。永久3年(1115年)蔵人頭に補任され、同年中に参議に任ぜられて公卿に列す。永久4年(1116年)美作権守を兼ねて、永久5年(1117年)に従三位に叙せられた。
しかし、保安元年(1120年)10月21日、30歳の若さで薨去。最終官位は従三位参議左近衛中将。同年7月に父・宗通が薨去して喪中にあったが、喪が明ける前に信通も薨去し、父子で公卿の者が同年中に薨逝することは例がなかったという[1]。藤原宗忠は琵琶や笛に長じ、家風を伝えたと評しており、宗忠も親類の縁で催馬楽を伝えている[1]。10月27日、鳥部野に葬送。
官歴
[編集]※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。
- 承徳2年(1198年)10月20日:著袴す[2]。
- 康和2年(1100年)正月5日:従五位下に叙す。
- 康和4年(1102年)
- 康和5年(1103年)8月17日:宗仁親王家昇殿を聴す[6]。
- 康和6年(1104年)正月3日:正五位下に叙す(行幸院賞。院司)。正月28日:右近衛少将に任ず。
- 長治2年(1105年)正月27日:伊予権介を兼ぬ。4月10日:従四位下に叙す(院去年御給)。
- 嘉承2年(1107年)正月5日:従四位上に叙す(閑院行幸賞)。
- 天仁元年(1108年)
- 10月14日:左近衛中将に遷る。
- 12月20日(1109年1月22日):正四位下に叙す(行幸院賞。別当)。
- 天仁2年(1109年)正月23日:美作介を兼ぬ。
- 永久2年(1114年)正月22日:周防介を兼ぬ。4月15日:禁色を聴さる。
- 永久3年(1115年)
- 4月28日:蔵人頭に補す。時に左近衛中将。
- 8月13日:参議に任ず。元蔵人頭。
- 永久4年(1116年)正月30日:美作権守を兼ぬ。
- 永久5年(1117年)11月15日:従三位に叙す(遷御三条皇后家賞)。
- 保安元年(1120年)10月21日:薨去。享年30。