藤原家明
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 大治3年(1128年) |
死没 | 承安2年12月24日(1173年1月9日) |
別名 | 西四条 |
官位 | 従三位、非参議 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇 |
氏族 | 藤原北家末茂流 |
父母 | 父:藤原家成、母:高階宗章の娘 |
兄弟 | 隆季、家明、成親、家教、盛頼、実教、仁性、成真、藤原忠雅室、源定房室、徳大寺公親室、経子、三条実長室、滋野井実国室、源雅頼室、藤原重家室、藤原信頼室、源資賢室 |
妻 | 藤原顕頼の娘 |
子 | 家光 |
藤原 家明(ふじわら の いえあきら/いえあき)は、平安時代後期の公卿。藤原北家末茂流、中納言・藤原家成の次男。官位は従三位・非参議。西四条と号す。
経歴
[編集]長承3年(1134年)主殿権助に任ぜられる。保延元年(1135年)従五位下に叙爵。保延3年(1137年)越後守。保延4年(1138年)左兵衛佐を務める。
保延6年(1140年)従五位上に叙される。永治元年(1141年)左近衛少将を務め、美濃守、備後守、内蔵頭などを歴任。その間、康治2年(1143年)正五位下、久安3年(1147年)従四位上、久安5年(1149年)正四位下に昇り、応和2年(1163年)従三位に叙され公卿に列す。
永暦2年(1161年)播磨守在任中後白河天皇の命で法住寺殿の造営を担当した。
仁安3年(1168年)41歳で出家。承安2年12月24日(1173年1月9日)に薨去。享年45。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 長承3年(1134年)8月27日:主殿権助
- 長承4年(1135年)正月15日:六位蔵人(元院判代官)、5月24日:従五位下(中宮臨時給)
- 保延3年(1137年)正月30日:越後守
- 保延4年(1138年)正月22日:左兵衛佐
- 保延5年(1139年)12月16日:重任
- 保延6年(1140年)正月6日:従五位上(労)
- 永治元年(1141年)12月2日:左近衛少将
- 康治2年(1143年)正月6日:正五位下(無品暲子内親王給。朝覲行幸)
- 天養元年12月16日(1145年1月10日):美濃守
- 久安元年11月18日(1146年1月2日):従四位下(朔旦)、少将如元
- 久安3年(1147年)正月2日:従四位上(朝覲行幸。暲子内親王給)
- 久安5年(1149年)3月20日:正四位下(暲子内親王延勝寺供養)
- 仁平2年(1152年)9月9日:備後守
- 保元2年(1157年)4月24日:内蔵頭、去少将
- 永暦元年(1160年)正月21日:播磨守
- 応保2年(1162年)正月30日:従三位(臨時)
- 仁安3年(1168年)4月3日:出家[1]