藤原登任
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 永延元年(987年) |
死没 | 不明 |
官位 | 従四位下、大和守 |
主君 | 三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇 |
氏族 | 藤原南家真作流 |
父母 | 父:藤原師長、母:播磨守光孝の娘 |
妻 | 周防守憲忠または平兼忠の娘 四条宮官女二条殿 |
子 | 長宗、長明、任尊、実覚 |
藤原 登任(ふじわら の なりとう)は、平安時代中期の貴族。藤原南家巨勢麻呂流、常陸守・藤原師長の子。官位は従四位下・大和守。
経歴
[編集]左兵衛尉を経て、長和2年(1013年)三条天皇の六位蔵人に補せられる。長和5年(1016年)三条天皇の譲位に伴って蔵人から院判官代に遷り、まもなく巡爵により従五位下に叙せられた。また、藤原教通室となっていた藤原公任の娘が出産にあたって、しばしば登任の三条の邸宅に移っており(『栄花物語』)[1]、登任は公任に対して家人として仕えていたとも考えられる。
後一条朝前期に能登守に任ぜられ、万寿元年(1024年)治国の功労により従五位上に叙せられる。その後も、出雲守・大和守と受領を歴任する一方、主殿頭も務めた。
後冷泉朝の永承5年(1050年)に陸奥守として東北地方に下向。翌永承6年(1051年)に安倍氏が衣川の柵を越え勢力圏を拡大しようとしたため、登任は秋田城介・平繁茂(繁成/重衛)らと安倍氏を討伐しようするも、逆に鬼切部で大敗を喫し更迭された。この事件が「前九年の役」の発端となる。当時の状況は後任の源頼義による上奏文に「東夷蜂起シ郡県ヲ領シ以ッテ夷地トナシ、人民ヲ駆使シ蛮虜トナシ六カ郡中、国務ニ従ガワズ、皇威ヲ忘ルルガ如シ」とある。
官歴
[編集]- 時期不詳:左兵衛尉、非蔵人
- 長和2年(1013年) 正月15日:六位蔵人、元非蔵人[2]、左兵衛尉如元[3]
- 長和4年(1015年) 4月13日:見蔵人式部丞[3]
- 長和5年(1016年) 正月29日:去蔵人(帝譲位)、院判官代[3]
- 寛仁2年(1018年) 5月18日:見従五位下[3]
- 時期不詳:能登守[4]
- 万寿元年(1024年) 正月26日:従五位上(治国)[3]
- 長元5年(1032年) 日付不詳:出雲守?[5]
- 時期不詳:主殿頭。大和守[4]
- 永承5年(1050年) 日付不詳:陸奥守
- 康平2年(1059年) 3月29日:出家[6]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:藤原師長
- 母:播磨守光孝(姓不明)の娘
- 妻:周防守憲忠の娘(又は平兼忠の娘)
- 男子:藤原長宗(1016-1085)
- 男子:藤原長明(1018?-1099)
- 妻:四条宮官女二条殿
- 男子:任尊
- 生母不明の子女
- 男子:実覚
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『新編 日本古典文学全集 32 栄花物語 2』小学館、1995年
- 宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年
- 市川久編『蔵人補任』続群書類従完成会、1989年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年