藤原貞本
時代 | 平安時代初期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 正五位下、大蔵大輔 |
主君 | 平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 | 父:藤原縄主、母:藤原薬子(藤原種継の娘) |
兄弟 | 貞本、貞吉、安殿親王妃、貞庭 |
妻 | 橘島田麻呂の娘 |
子 | 正世、正峯 |
藤原 貞本(ふじわら の さだもと)は、平安時代初期の貴族。藤原式家、中納言・藤原縄主の子。官位は正五位下・大蔵大輔。
経歴
[編集]平城朝の大同3年(808年)正月に従五位下に叙爵後、左兵衛佐次いで左近衛少将と武官を歴任する。大同4年(809年)11月には右近衛中将・藤原真夏や左馬頭・藤原真雄らとともに摂津国豊島・為奈の野地と、平城旧京内に建造する平城上皇の宮殿の敷地の占定を行っている[1]。
嵯峨朝に入り、弘仁元年(810年)薬子の変が発生すると、母の薬子は自殺、叔父の仲成は射殺され、貞本も連座して飛騨権守に左遷された。
仁明朝初頭の天長10年(833年)大赦が行われ、薬子の変で配流された者が近国へ移されるが、貞本は特別に帰京を許される。承和13年(846年)38年ぶりに昇叙され従五位上となり、翌承和14年(847年)大蔵大輔に任ぜられる。嘉祥3年(850年)仁明天皇の葬儀に際して装束司を務めた。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上。内蔵助
- 大同3年(808年) 正月25日:従五位下。日付不詳:左兵衛佐。11月27日:兼但馬介、内蔵助如故
- 大同4年(809年) 11月5日:見左近衛少将
- 弘仁元年(810年) 9月10日:飛騨権守
- 天長10年(833年) 6月9日:帰京(大赦)
- 承和13年(846年) 正月7日:従五位上
- 承和14年(847年) 2月11日:大蔵大輔
- 嘉祥3年(850年) 3月22日:装束司(仁明天皇崩御)
- 仁寿3年(853年) 正月7日:正五位下
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]- ^ 『日本後紀』大同4年11月5日条