藤原資仲
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 治安元年(1021年) |
死没 | 寛治元年11月12日(1087年12月14日) |
別名 | 帥入道 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家小野宮流 |
父母 | 父:藤原資平、母:藤原知章の娘 |
兄弟 | 資房、資仲 養兄弟:義綱 |
妻 | 源経頼の娘 |
子 | 顕実、行仲、顕仲、仲通、静明、慶源、静経、相豪、静命、藤原兼実室 |
藤原 資仲(ふじわら の すけなか)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人・漢詩人。藤原北家小野宮流、大納言・藤原資平の二男。官位は正二位・権中納言。
経歴
[編集]長元6年(1033年)従五位下・讃岐権守に叙任。長元9年(1036年)侍従・右近衛少将に任ぜられ、長元10年(1037年)従五位上・備中権介に叙任。
長暦4年(1040年)正五位下・右少弁に叙任される。長久2年12月(1042年1月)には左少弁に転じ、長久5年(1044年)後朱雀天皇の五位蔵人に補任される。永承2年(1047年)には後冷泉天皇の五位蔵人に補され、造興福寺長官に任官。永承3年(1048年)従四位下に叙せられ、右中弁に任ぜられた。永承4年(1049年)従四位上に昇叙。
永承5年(1050年)権左中弁に転任。永承6年(1051年)播磨介、永承7年(1052年)春宮権亮を兼ね、天喜5年(1057年)正四位下・近江権介に叙任される。天喜6年(1058年)左中弁に転じ、康平3年(1060年)美作権介を兼ねた。康平5年(1062年)修理大夫。
治暦4年(1068年)蔵人頭に補任される。同年参議に任ぜられ、治暦5年(1069年)には従三位・右兵衛督に叙任。検非違使別当となり、正三位に昇叙。延久2年(1070年)には播磨権守を兼ね、従二位に叙せられた。
延久4年(1072年)左兵衛督・春宮権大夫を兼帯し、権中納言に任ぜられる。延久5年(1073年)正二位・右衛門督に叙任され、承保2年(1075年)左衛門督に転じた。承暦4年(1080年)大宰権帥に転任。応徳元年(1084年)に出家し、帥入道と呼ばれた。寛治元年(1087年)薨去。享年67。
人物
[編集]永承4年(1049年)の内裏歌合などに出詠するなど、歌人として活躍。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。また、康資王母・伊賀少将・周防内侍らの交流が知られる。家集に『後拾遺集』があるが散逸。
漢詩にも秀で、『中右記部類紙背漢詩集』に漢詩が残っている。また、有職故実に詳しく、故実書『青陽抄』『節会抄』を著したと伝わるが、現存しない。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 長元6年(1033年)
- 正月5日:従五位下に叙す(章子内親王給)。
- 10月:讃岐権守に任ず。
- 長元9年(1036年)
- 2月27日:侍従に任ず。
- 12月8日:右近衛少将に任ず。
- 長元10年(1037年)
- 正月5日:従五位上に叙す(少將)。
- 正月23日:備中権介を兼ぬ。
- 長暦4年(1040年)
- 正月5日:正五位下に叙す(少將)。
- 正月25日:右少弁に遷る。
- 長久2年12月9日(1042年1月3日):左少弁に転ず。
- 長久3年(1042年)2月16日:氏院別当に補す。
- 長久5年(1044年)正月11日:五位蔵人に補す。
- 寛徳2年(1045年)正月16日:蔵人を止む(譲位)。
- 永承2年(1047年)
- 正月13日:五位蔵人に補す。
- 正月22日:造興福寺長官と為す。
- 永承3年(1048年)
- 3月2日:従四位下に叙す(興福寺供養賞)。左少将如元。
- 12月7日(1049年1月13日):右中弁に転ず。
- 永承4年(1049年)正月5日:従四位上に叙す(先朝行幸平野北野社行幸賞)。
- 永承5年(1050年)9月17日:権左中弁に転ず。
- 永承6年(1051年)正月27日:播磨介を兼ぬ。
- 永承7年(1052年)2月26日:春宮権亮を兼ぬ。
- 天喜5年(1057年)
- 正月5日:正四位下に叙す(造宮行事)。
- 2月30日:近江権介を兼ぬ。
- 天喜6年(1058年)4月25日:左中弁に転ず。
- 康平3年(1060年)2月20日:美作権介を兼ぬ。
- 康平5年(1062年)
- 3月:造興福寺長官と為す。
- 3月12日:修理大夫に転ず。亮如元。
- 治暦4年(1068年)
- 3月5日:復任(父喪)。時に修理大夫。
- 4月19日:春宮権亮を止む。
- 8月12日:蔵人頭に補す。
- 12月29日(1069年1月24日):参議に任ず。大夫如元。
- 治暦5年(1069年)/延久元年
- 正月5日:従三位に叙す(先坊権亮)。
- 正月27日:右兵衛督を兼ぬ。
- 2月26日:修理大夫を兼ぬ。
- 5月17日:検非違使別當に補す。
- 8月16日:正三位に叙す(行幸院司賞)。
- 延久2年(1070年)
- 正月29日:播磨権守を兼ぬ。
- 4月:修理大夫を辞す。
- 12月26日(1071年1月29日):従二位に叙す(供養円明寺陽明門院院司賞)。
- 延久4年(1072年)
- 延久5年(1073年)
- 2月:別當を辞す。
- 4月17日:右衛門督を兼ぬ。
- 4月30日:正二位に叙す(行幸院司賞)。
- 承保2年(1075年)正月28日:左衛門督を兼ぬ。
- 承暦3年(1079年)正月27日:左衛門督を辞す。
- 承暦4年(1080年)正月27日:罷職。大宰権帥に任ず。
- 応徳元年(1084年)4月:出家。
- 寛治元年(1087年)11月17日:薨去。