西尾忠善

 
西尾忠善
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和5年7月22日1768年9月2日
死没 天保元年12月17日1831年1月30日
改名 栄次郎(幼名)、忠善
戒名 高徳院傑山道寿
墓所 静岡県掛川市西大渕の龍眠寺
官位 従五位下、右衛門佐、右京亮、隠岐守、
豊後
幕府 江戸幕府 奏者番
遠江国横須賀藩
氏族 牧野氏→西尾家(後期東条吉良氏庶流)
父母 父:牧野貞長、母:松平乗佑の娘
養父:西尾忠移
兄弟 牧野貞喜忠善
西尾忠移の娘
忠宝忠固、娘(石川総佐正室)、
美代子(高木正明正室)、
娘(内藤頼寧継室)、
静子(堀直格正室)、娘(三宅康直正室)
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西尾 忠善(にしお ただよし)は、遠江横須賀藩の第5代藩主。横須賀藩西尾家8代。

生涯

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明和5年(1768年)7月22日、常陸笠間藩牧野貞長の四男として生まれる。天明2年(1782年)12月23日、横須賀藩主西尾忠移の養子となる。天明4年(1784年)3月1日、将軍徳川家治に拝謁する。同年12月16日、従五位下、右衛門佐に叙位・任官する。寛政2年(1790年)10月16日には右京亮に転任する。享和元年(1801年)5月27日、忠移の死去により家督を継ぎ、隠岐守に転任する。

文化3年(1806年)1月晦日、奏者番に任じられる。文化8年(1811年)、藩の学問所である修道館を創設し、国学者八木美穂を招聘して学問を奨励した。また、藩財政再建のため、漁法の刷新や刀工を奨励した。しかし文化13年(1816年)に年貢減免を求めての一揆も発生している。

文政11年12月11日(1829年)、病気を理由に奏者番を辞する。文政12年(1829年)3月16日、病気を理由に家督を四男の忠固に譲って隠居し、豊後守に転任する。天保元年12月17日(1831年)、江戸木挽町屋敷で死去した。享年63。

系譜

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父母

正室

子女