諫早茂成

 
諫早茂成
時代 江戸時代中期
生誕 寛保2年12月13日1743年1月8日
死没 明和6年3月20日1769年4月26日
改名 義宣、茂成
別名 直次郎、兵庫、豊前
墓所 長崎県諫早市西小路町天祐寺
主君 鍋島宗教重茂
肥前佐賀藩
氏族 諫早鍋島家諫早氏
父母 諫早茂行、松本政右衛門娘
兄弟 行孝茂成茂図
鍋島直員娘・美濃
茂図
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諫早 茂成(いさはや しげなり)は、江戸時代中期の武士肥前国佐賀藩士。諫早鍋島家諫早氏)10代当主。

出自

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諫早家は龍造寺隆信の又従兄弟家晴の子孫。藩主鍋島氏の旧主君龍造寺氏の一族で、鍋島氏を憚って諫早氏を称す。家紋は「上り藤」。代々藩主の偏諱を受け「茂」の字を拝領している。藩内の家格は親類同格

龍造寺氏一族として、藩内で大名並みの知行二万六千石と強い影響力を持つ。

略歴

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寛保2年(1743年)12月13日、諫早8代邑主・諫早茂行の子として誕生。正室は鍋島直員娘・美濃。

宝暦3年(1753年)8月に兄・行孝が死去し、9月27日、その家督を相続した。

宝暦10年(1760年)9月、藩主・鍋島宗教廃立の陰謀に関与したとして処罰された父・茂行の蟄居が許される。宝暦12年(1762年)藩主・鍋島重茂江戸参勤に従い、江戸で勤務する。明和2年(1765年)藩の請役家老となる。明和4年(1767年)藩より没収されていた知行一万石(地米四千石)を返還される。

明和6年(1769年)3月20日死去。享年28。菩提寺の天祐寺に葬られた。

参考文献

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