谷口元治郎
谷口 元治郎 | |
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生誕 | 1885年6月11日 日本 東京府 |
死没 | 1959年4月8日(73歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1904年 - 1940年 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
谷口 元治郎(たにぐち もとじろう、1885年(明治18年)6月11日[1] - 1959年(昭和34年)4月8日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2]
経歴
[編集]1885年(明治18年)に東京府で生まれた[1]。陸軍士官学校第16期、陸軍大学校第27期卒業[1]。フランス駐在を経て[2]、1926年(大正15年)10月に陸軍省兵務局兵務課高級課員に就任し、1928年(昭和3年)8月10日に陸軍砲兵大佐進級と同時に参謀本部防衛課長に着任した[2][3]。1931年(昭和6年)8月に野砲兵第10連隊長(第10師団)に転じ[3]、満州事変に出動した[1]。
1933年(昭和8年)8月1日、陸軍少将進級と同時に陸軍重砲兵学校幹事に着任[1][2]。1935年(昭和10年)3月15日に野戦重砲兵第3旅団長に転じ[1]、10月11日に砲兵監部附を経て[1]、1936年(昭和11年)3月に陸軍習志野学校長に就任した[1]。1937年(昭和12年)2月1日に留守第8師団司令部附となり[1]、3月1日に陸軍中将に進級した[2]。1938年(昭和13年)6月22日に第108師団長に親補され[1]、日中戦争に出動[1]。臨汾に駐屯し[1]、八路軍を相手に悪戦苦闘した[1]。1939年(昭和14年)11月に留守第8師団司令部附となり[1]、1940年(昭和15年)2月28日に待命[3]、2月29日に予備役に編入された[1]。1945年(昭和20年)4月1日に召集され、長崎要塞司令官に就任し[1]、6月1日に独立混成第122旅団長に転じた[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
栄典
[編集]- 勲章
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。