逸見光長
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 大治3年8月15日(1128年9月11日) |
死没 | 不明 |
別名 | 太郎、逸見冠者 |
墓所 | 清光寺(現・山梨県北杜市) |
官位 | 上総介 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝 |
氏族 | 甲斐源氏逸見氏 |
父母 | 父:源清光、母:駿河国手越宿の遊女 |
兄弟 | 光長、武田信義、加賀美遠光、安田義定、二宮清隆、河内義長、田井光義、曾禰厳尊、奈胡義行、浅利義遠、八代信清、利見義氏、河内長義、源道光、源光賢 |
子 | 基義、深津義長、義俊、保義、飯富宗長[注 1]ら 養子:有義(武田信義庶長子) |
逸見 光長(へんみ みつなが)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。逸見氏、深津氏[注 2]、大桑氏などの祖[2][1]。
生涯
[編集]大治3年(1128年)[注 3]8月15日、新羅三郎義光の孫である源清光の長男として誕生。母は駿河国手越宿[注 4]の遊女とされる[要出典]。武田信義は双子の弟である[4][5][注 5]。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる[6]。
逸見太郎を名乗り、逸見荘を領した[1]。源頼朝が挙兵した際には鎌倉に馳せ参じた[1]。元暦元年(1184年)木曽義仲追討の功により、上総介に任ぜられた[7]