部領使

部領使(ことりづかい/ぶりょうし)とは、古代日本において、人員や物資を引率して送り届けるための使者である。兵士・防人・衛士・鷹・米・・経典などをおくり届けた。

概要

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「事(こと)執り」から「ことり」と呼ばれるようになったと言われており、本来は一団の長、集団を統率する者を意味していた。そこから、人や物を徴用・宰領して輸送する官使を指すようになった。著名なものに、「防人部領使」と「相撲部領使」がある。

  • 万葉集』巻第二十、4327番の後の但し書きには、「防人部領使遠江国史生坂本朝臣人上(さかもと の あそん ひとかみ)が進(たてまつ)る歌の数十八首」とあるが、「防人部領使」とは、各国の防人を難波津まで護送する地方官で、「軍防令」によると、
およそ衛士の京に向ひ、防人の津に至らむ間には、みな国司をして親しく自ら部領せしめよ(衛士が京に向かい、防人が難波津に到着するまでの間は、みな国司に自ら親しく部領させること)。[1]

とある。部領使は他国では(さかん)の国司が担当しており、史生が行った遠江は例外である。

  • 「相撲部領使」は陰暦7月の「相撲節」の相撲人を京に召し出すために、朝廷から諸国に派遣される使者で、これを単に「部領使」、または「相撲使」とも呼んだ。同じく『万葉集』巻第五には、吉田宜の「孟秋節に膺(あたる)。伏して願はくは、万祐日に新たならむことを。今相撲部領使に因せ、慎みて片紙(へんし)を付く(今日は折から初秋七月七日の節句にあたりますが、伏してお願いすることは、日に日に多幸なられんことです。今、相撲の部領使に頼んで、謹んで短いお手紙をことづけます)[2]」という文や、あるいは山上憶良大伴熊凝の哀悼の文として「年十八にして、天平三年(731年)六月十八日を以て、相撲使某国司官位姓名の従人となり、京都(みやこ)に参ゐ向かふ(年十八歳、天平三年六月十八日に、相撲の部領使の国司官位姓名某の従者となって、奈良の都に向かった)[3]」とある。

また、「部領」とは奈良時代平安時代春宮坊で、「帯刀の陣」(たちはきのじん)で帯刀の長(たちはきおさ)に次ぐ事務担当官の意味でもある。春宮の舎人左右の衛門尉(えもんのじょう)が兼任した。「木鳥」(もくちょう)・「籠取り」とも呼ばれた。

脚注

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  1. ^ 軍防令」20条「衛士向京条」
  2. ^ 『万葉集』864番序文
  3. ^ 『万葉集』886番序文

参考文献

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  • 『萬葉集』(二)完訳日本の古典3、小学館、1984年
  • 『萬葉集』(六)完訳日本の古典7、小学館]、1987年
  • 『岩波日本史辞典』p1017、監修:永原慶二岩波書店、1999年

関連項目

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