鈴木博昭 (野球)
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県蓮田市 |
生年月日 | 1946年11月10日(78歳) |
身長 体重 | 177 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1973年 ドラフト2位 |
初出場 | 1977年4月3日 |
最終出場 | 1977年7月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について |
鈴木 博昭(すずき ひろあき、1946年11月10日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
来歴・人物
[編集]大宮商業高校では2年生の時、五番打者、左翼手として、1963年夏の甲子園埼玉県予選決勝に進むが、榊親一のいた大宮高に敗退。翌1964年夏は県予選準決勝で飯能高に敗れ、甲子園には届かなかった。
率業後は三菱自動車川崎へ入社。都市対抗野球大会に補強も含め4回出場。1972年の大会では、1回戦で新日鐵八幡から2打席連続本塁打を放つなど活躍。決勝に進むが日本楽器の新美敏に完封を喫し準優勝に終わる。この時のチームメートに四番打者の原田俊治がいる。翌1973年の都市対抗には日本鋼管に補強され出場。日産自動車との決勝では本塁打を放ち、チームの初優勝に貢献した[1]。1972年から2年連続社会人ベストナイン(二塁手)に選ばれ、監督候補にも挙がった。1972年には第20回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出。1973年にはアジア野球選手権大会日本代表となり4本塁打、優勝に貢献し最高殊勲選手賞を獲得。同年の第1回インターコンチネンタルカップ日本代表にも選出されている。
1973年ドラフト会議で中日ドラゴンズから2位指名を受け入団[2]。当時ドラフトで指名された71選手の中では最年長の27歳で入団した。長距離砲として期待され、1977年には25試合出場[2]、6月には一塁手、六番打者として実質先発出場(偵察メンバーの松林茂から交代)を果たす。1978年はウエスタン・リーグで14本塁打を打ち、本塁打王となるが、一軍の壁は厚く同年オフに引退した[2]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977 | 中日 | 25 | 23 | 22 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | .136 | .174 | .182 | .356 |
通算:1年 | 25 | 23 | 22 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | .136 | .174 | .182 | .356 |
記録
[編集]- 初出場:1977年4月3日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、4回表に青山久人の代打で出場
- 初安打:1977年4月17日、対大洋ホエールズ3回戦(千葉県野球場)、8回表に金山仙吉の代打で出場、間柴茂有から単打
背番号
[編集]- 25 (1974年 - 1978年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 鈴木博昭 - NPB.jp 日本野球機構