長崎県立瓊浦中学校 (旧制)
長崎県立瓊浦中学校(旧制) 略称:瓊中 | |
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創立 | 1923年(大正12年) |
所在地 | 長崎県長崎市 |
初代校長 | |
廃止 | 1948年 |
後身校 | 長崎県立瓊浦高等学校 → 長崎県立長崎東高等学校 → 長崎県立長崎西高等学校 |
同窓会 | 瓊浦中学校同窓会(2011年解散) |
長崎県立瓊浦中学校(ながさきけんりつ けいほちゅうがっこう)は、長崎県長崎市竹ノ久保にかつて存在した旧制中学校。略称「瓊中(けいちゅう)」
戦後の学制改革で長崎県立長崎瓊浦高等学校になった後、他3校[3]と統合・分割され、長崎県立長崎東高等学校と長崎県立長崎西高等学校として開校した。そのため、長崎県立長崎中学校(旧制)等とならんで、長崎東高等学校と長崎西高等学校の前身の1つ[4][5][6]である。
校舎の跡地には現在、長崎県立長崎西高等学校が建っている。
概要
[編集]- 校名の由来
- 「瓊浦」とは、「長崎」の古い呼び名「瓊の浦」(たまのうら)に由来している。
- 校訓
- 「不撓不屈」
- 校章
- 「中」の文字
- 校歌
- 作詞が富永公民、作曲が小坂井桂次郎。3番まであり、1番に「瓊の浦(たまのうら)」が登場する。
沿革
[編集]- 1923年(大正12年)4月1日[7] - 「長崎県立瓊浦中学校」が開校。竹ノ久保の元長崎重砲兵大隊[8]兵舎を仮校舎とした。
- 1924年(大正13年) - 校舎を新築・移転。
- 1926年(大正15年) - 瓊浦中学校内に長崎夜間中学校が開設。
- 1928年(昭和3年)6月10日 - 開校式を挙行。
- 1933年(昭和8年) - 長崎夜間中学校を長崎市立夜間中学校と改称。
- 1943年(昭和18年)
- 1945年(昭和20年)
- 3月 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策に基づく修業年限4年施行の前倒しにより、4年生と5年生の合同卒業式が行われる。
- 4月1日 - 学校での授業が停止される。ただし勤労動員は継続される。
- 8月9日 - 長崎への原子爆弾投下。
- 9月 - 授業を再開。
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年に戻る。
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 4月1日 - 学制改革に伴い、「長崎県立瓊浦高等学校」[11]と改称。
- 旧制中学校卒業生(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
- 併設中学校は新制高校に継承され(名称:長崎県立瓊浦高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 11月30日 - GHQ派遣のニブロ教育官勧告を受け、長崎市内の他3校[3]と統合の上、「長崎県立長崎東高等学校」と「長崎県立長崎西高等学校」が開校。
- 西山校舎(旧・長崎県立長崎高等女学校)が長崎県立長崎東高等学校の校舎にあてられる。
- 鳴滝校舎(旧・長崎県立長崎中学校)が長崎県立長崎西高等学校の校舎にあてられる。
- 併設中学校も統合され、「長崎県立長崎東・西高等学校併設中学校」として桜馬場校舎(旧・長崎市立高等女学校[12])1ヶ所にまとめられる。
- 4月1日 - 学制改革に伴い、「長崎県立瓊浦高等学校」[11]と改称。
- 1950年(昭和25年)7月 - 長崎県立長崎西高等学校が長崎市竹の久保町(旧・長崎県立瓊浦中学校跡)に木造校舎を新築し、鳴滝から移転。
- 1971年(昭和46年)8月8日 - 旧制瓊浦中学校の「報国隊犠牲者の碑」が長崎西高校の正門横に完成し、入魂式を挙行。「不撓不屈」の文字が刻まれている。
- 1992年(平成4年) - 同窓会により長崎西高校前の坂に「瓊浦中学の碑」が建立。
- 2011年(平成23年)11月4日 - 会員の高齢化に伴い、瓊浦中学校創立90周年を節目に同窓会が解散[13][14]。
部活動
[編集]- 運動部
- 文化部
- 弁論部
歴代校長
[編集]- 初代 - 岡野章太
- 第2代 - 船引真造
- 第3代(最終) - 数川与五郎
著名な出身者
[編集]- 大賀良平 - 第12代海上幕僚長
- 大津留温 - 建設事務次官、住宅金融公庫総裁
- 中楯興 - 水産経済学者、九州大学名誉教授
- 松谷蒼一郎 - 参議院議員、内閣官房副長官
- 森澄雄 - 詩人、日本芸術院賞・紫綬褒章
原子爆弾の被害
[編集]- 爆心地から西南約800mにあった長崎県立瓊浦中学校では、1945年(昭和20年)8月9日 午前11時2分に投下された原子爆弾により、木造2階建ての本館・別館校舎が倒壊、平屋建ての新築校舎が全壊・全焼した。 その日、学校敷地内には教職員10名、生徒40名、助手・用務員等11名、計61名がいたが、生き残ったのはわずか数人であった。2年以上の学年は学徒報国隊として出動。1年生は午前10時に試験を終え、一部のものを除いて帰宅しており、それぞれの場所で被爆した。 罹災死亡者数について「長崎県立瓊浦中学校沿革誌」には、教職員16名、生徒387名と記しており、このほか用務員2人の爆死を加えると計405人の被害であったと推定されている。[15][16][17]
- 当時校内に設置されていた高さ6.2メートルの給水タンクは、原爆の爆風により鉄骨が飴細工のように曲がった姿となり、戦後長く爆心地公園に移され現状保存されていたが、その後1996年に開館した長崎原爆資料館に移され展示されている[18]。
脚注
[編集]- ^ 長崎県立瓊浦中学校の被爆のクスの木 - 岩波書店ウェブサイト
- ^ 平和の誓い新たに(2009年(平成21年)8月9日) - 長崎県立長崎西高等学校
- ^ a b 長崎県立長崎高等学校、長崎県立長崎女子高等学校、長崎市立女子高等学校
- ^ 東高の沿革 - 長崎県立長崎東中学校・高等学校ウェブサイト
- ^ 長崎西高校の誕生と校風の樹立について - 長崎東高在京同窓会
- ^ なお、長崎東高等学校も長崎西高等学校も旧制中学校の成立年ではなく、1948年(昭和23年)を基準に創立年数を数えている。(長崎東高等学校創立60周年記念事業の概要について - 長崎東高在京同窓会ウェブサイト、長崎西高等学校創立60周年 - 長崎県立長崎西高等学校ウェブサイト)
- ^ 市制百年長崎年表による。なお長崎東高校ウェブサイトでは1922年(大正11年)4月瓊浦中学開校と記されている。
- ^ 1921年(大正10年)に軍縮のため、解隊された。大砲の車輪は払い下げられ、長崎くんちで八坂町の川船に使用された。
- ^ 長崎市立長崎高等学校の前身。
- ^ 山里国民学校の初等科が長崎市立山里小学校に、高等科が長崎市立山里中学校(新制中学校)に改組される。
- ^ 私立の瓊浦高等学校とは無関係。
- ^ 現・長崎市立桜馬場中学校。
- ^ 旧制瓊浦中同窓会が解散 卒業生ら慰霊碑に報告 - 長崎新聞2011年(平成23年)11月5日
- ^ 90周年式典の際には、同校が前身の一部である2校による記念行事(長崎東高等学校による記念演奏会、長崎西高等学校による記念コーラス)が行われた。(県立瓊浦中学校創立90周年記念式典の開催について - (PDF)長崎県ウェブサイト)
- ^ 長崎原爆被災説明板「旧制瓊浦中学校」(現長崎県立長崎西高等学校の校門近くに長崎市役所によって設置されている。)
- ^ 原爆の威力 原爆災害報告 - 長崎市役所ウェブサイト
- ^ 瓊浦中学校 - 長崎平和研究所ウェブサイト
- ^ 長崎原爆資料館所蔵品検索「瓊浦中学校給水タンク」。