閻敬銘

閻 敬銘(えん けいめい、Yan Jingming1817年 - 1892年)は、末の官僚。字は丹初陝西省朝邑県出身。

1845年進士となり、戸部主事となった。1859年湖北省太平天国軍との戦いのための食糧輸送を担当し、巡撫の胡林翼に評価されて按察使に昇進した。さらに1862年には胡林翼の後任の巡撫の厳樹森の推薦で布政使となった。その後、山東塩運使、さらに山東巡撫となり、捻軍白蓮教徒との戦いを指揮した。また黄崖山で講学を行っていた太谷学派張積中を弾圧した。

1882年に戸部尚書となり、1883年軍機大臣総理各国事務衙門大臣に就任し、協弁大学士に昇進。さらに1884年東閣大学士となった。財政に明るく、「救時宰相」と称された。1889年西太后が280万両をかけて頤和園を修築しようとしたことに反対したが、受け入れられなかったため辞任を申し出た。死後、太子少保と文介の諡号を贈られた。

出典

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先代
譚廷襄
山東巡撫
1862-1867
次代
丁宝楨
先代
董恂
戸部漢尚書
1882-1885
次代
翁同龢