阿部正喬
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛文12年4月28日(1672年5月25日) |
死没 | 寛延3年7月26日(1750年8月27日) |
別名 | 善七郎(幼名) |
墓所 | 多磨霊園 |
官位 | 従五位下出羽守・飛騨守、従四位下豊後守・侍従 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番兼寺社奉行、老中 |
主君 | 徳川家宣→家継→吉宗 |
藩 | 武蔵忍藩主 |
氏族 | 阿部氏 |
父母 | 父:阿部正武、母:井伊直澄の養女(井伊直縄の娘) |
兄弟 | 正喬、金助、女(松平正容室)、女(松平光煕室)、正晴、正府 |
妻 | 正室:井伊直興の娘 |
子 | 実子:娘(奥平昌成正室)、正秋、正乗、正直、図書(早世)、正敏、銕之助、要之丞 養子:宝蓮院(阿部正房の娘、間部詮言正室)、正允、阿部正直の娘、阿部正晴の娘(井伊直存室) |
阿部 正喬(あべ まさたか)は、江戸時代中期の大名、老中。武蔵忍藩主。忠秋系阿部家4代。
生涯
[編集]寛文12年(1672年)4月28日、忍藩主・阿部正武の嫡男として生まれた。家督を継ぐ前から元禄12年(1699年)に奏者番、寺社奉行を歴任し、武蔵・相模国の内1万石を与えられ諸侯に列する。[1]宝永元年(1704年)10月、父の死により家督を相続した。この時、弟の正晴に新墾田5000石を分与し自らは10万石を領している。また、以前に領していた1万石は収公され、奏者番と寺社奉行の職を解かれた。
宝永7年(1711年)4月に老中となり、在任中は正徳金銀鋳造の総奉行(1714年 - )、ならびに7代将軍徳川家継と八十宮吉子内親王(霊元法皇の皇女)の婚姻の総奉行(1716年)、長州藩と徳山藩の争論(万役山事件)の審議を担当している。享保2年(1717年)9月、ちょうど享保の改革の直前に老中を辞任した。その後30年以上は藩政に専念する。
正喬の代ごろから忍藩は財政難に見舞われるようになり、寛保2年(1742年)8月2日には江戸期を通じて最大の洪水が忍を襲う。すなわち利根川と荒川が決壊し、藩領10万石のうち6万石が収穫不可になる未曾有の災害を受け、幕府より1万両拝借を余儀なくされている。
藩主になってから44年経った寛延元年(1748年)に隠居し、寛延3年(1750年)に79歳で死去した。長男の正秋は病気のため廃嫡、三男の正直は正喬に先だって死去し、五男の正敏もきわめて若年だったため、隠居後は実弟で分家の旗本・阿部正晴の長男正允が養嗣子となり家督を継いだ。
略歴
[編集]- 1672年(寛文12年)4月28日、生誕。
- 1680年(延宝8年)12月11日、徳川綱吉にはじめて拝謁。
- 1699年(元禄12年)3月28日、奏者番。
- 1699年(元禄12年)閏9月28日、寺社奉行兼任。武蔵国幡羅郡、相模国三浦・高座郡の内1万石拝領。
- 1704年(宝永元年)10月29日、忍藩相続。奏者番、寺社奉行辞任。
- 1707年(宝永4年)2月28日、はじめて忍藩領に赴く。
- 1711年(正徳元年)4月11日、老中。
- 1717年(享保2年)9月19日、老中辞任。以後、雁間詰に候す。(将軍に拝謁する際は西湖の間に伺候)
- 1748年(寛延元年)7月29日、隠居。
- 1750年(寛延3年)7月26日、死去。享年79歳。
官職および位階等の履歴
[編集]- 1686年(貞享3年)12月26日、従五位下出羽守。
- 1692年(元禄5年)11月15日、飛騨守。
- 1709年(宝永6年)12月18日、従四位下に昇進。
- 1711年(正徳元年)4月11日、豊後守。
- 1711年(正徳元年)6月1日、侍従。
系譜
[編集]父母
正室
- 井伊直興の娘
側室
- 草本氏
子女
養子、養女
脚注
[編集]- ^ まだ家督相続前だったため、この領地は部屋住み料とされた。
参考文献
[編集]- 工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年。
- 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第十、八木書店、1969年。