霞ヶ浦忠男
霞ヶ浦 忠男(かすみがうら ただお、1902年4月23日[1] - 1945年[1])は、茨城県行方郡牛堀町(現・潮来市)出身[2]で、出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は今泉 忠[1]。最高位は十両5枚目[1]。
経歴
[編集]出羽ノ海部屋に入門し、1919年1月「諏訪錦」の四股名で序ノ口に就く。1929年1月、十両に昇進する。この場所と翌場所も2場所続けて負け越したため幕下に落ちた。1930年1月、再び十両に昇進して四股名を「霞ヶ浦」と改めた。5月に幕下に落ち、1931年1月に十両に復帰する。1932年1月、春秋園事件が起こり、霞ヶ浦は天竜三郎に従い、相撲協会を脱退した[1]。その後、新興力士団、関西角力協会に所属し、同協会が1937年に解散した後も相撲協会に復帰しなかった。1945年死去。
改名
[編集]諏訪錦→霞ヶ浦[2]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小池謙二『大相撲星取大鑑』昭和編第1巻、医聖社、1986年
- 昭和の大相撲刊行委員会/編『昭和の大相撲 資料編』TBSブリタニカ、1989年