青山幸宜
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時代 | 江戸時代後期 - 昭和時代 |
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生誕 | 嘉永7年11月20日(1855年1月8日) |
死没 | 昭和5年(1930年)2月6日 |
改名 | 峯之助(幼名)、幸宜 |
戒名 | 院殿翼齋大居士 |
墓所 | 東京都港区南青山の梅窓院(浄土宗) |
官位 | 従五位下、大膳亮、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇、大正天皇、昭和天皇 |
藩 | 美濃郡上藩主 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 父:青山幸哉、養母:戸田氏庸の娘 |
兄弟 | 幸宜、澄子、禄子、錫子、鈎子 |
妻 | 定子(広幡忠礼の娘) 待子(井伊直弼の娘) 文子(藤堂高邦の娘) |
子 | 幸正、幸直、幸泰、岩城隆徳、幸高、中井幸敬、孝子 |
青山 幸宜(あおやま ゆきよし)は、江戸時代末期の大名。美濃国郡上藩第7代(最後)の藩主。幸成系青山家11代。明治維新後は華族(子爵)に列し、貴族院議員を務めた。
生涯
[編集]嘉永7年(1854年)、6代藩主・青山幸哉の長男として誕生した。文久3年(1863年)、父の死去により家督を継ぐ。
元治元年(1864年)、天狗党の乱では幕命に従って鎮圧のために出兵したが、天狗党が既に通過した後だったために戦うことなく終わっている。幕末期の郡上藩では、佐幕派と尊王派が対立し、幸宜も消極的ながら佐幕派として行動していたが、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まると、2月に新政府に恭順している。しかし家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉が凌霜隊を結成して脱藩し、幕府側に味方して会津若松城で戦うなどしている。
明治2年(1869年)の版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で免職された。明治17年(1884年)の華族令制定に伴い、同年7月8日に子爵を叙爵[1]。その後は実業家として活動、日本印刷社長、岩倉鉄道学校理事などを務めた[2]。1890年(明治23年)7月10日に貴族院議員に就任し[2][3]、1925年(大正14年)7月9日まで5期在任した[3]。このほか、赤坂区会議員[3]、東京市会議員を務めた[4]。
昭和5年(1930年)2月6日に死去。享年77。
栄典
[編集]人物
[編集]市川米庵に書を学び、多くの名筆を残したといわれる。
幸宜の従兄弟で、旧篠山藩主子弟の青山忠誠が藩内の子弟(のちに兵庫県居住者の子弟)のために東京に建てた寄宿舎尚志館には、幸宜によって書かれた看板が現在も残っている。[7]
系譜
[編集]父母
妻
子女
- 青山幸正[8](長男)
- 青山幸直[9](次男) - 第12代当主
- 青山幸泰(四男)
- 岩城隆徳(五男) - 旧出羽亀田藩主・子爵岩城隆邦の養子
- 青山幸高[10](六男)
- 青山幸敬[11](七男)
- 青山孝子(長女) - 細川源三郎(細川潤次郎の三男)夫人
孫
長男の幸正は、父に先立って1904年に死去した[13]。幸宜の跡は次男の幸直が継ぎ、幸直が1947年7月に没すると長男の幸壽が跡を継ぐ[13]。幸壽は1986年に没した[13]。
六男の幸高は、陸軍勤務の後、戦後は日本で初めて競馬馬の輸送自動車会社を起こした。ローマオリンピックの日本馬術競技の監督、日本馬術連盟理事などを歴任している。七男の幸敬は陸軍獣医学校教官など陸軍畑で活躍後、戦後は会社経営に携わった。
脚注
[編集]- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ a b “青山幸宜”. 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年3月19日閲覧。
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』33頁。
- ^ 制限選挙期における東京市会議員総選挙の結果について(櫻井良樹)
- ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号
- ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
- ^ “尚志館”. 2021年12月13日閲覧。
- ^ 読みはゆきまさ
- ^ 読みはゆきなお
- ^ 読みはゆきたか
- ^ 名はゆきひろ、中井に改姓、のち復姓
- ^ 名はゆきなが
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上、pp.8-9
出典
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館 華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上、霞会館、1996年。
外部リンク
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 | 子爵 (郡上)青山家初代 1884年 - 1930年 | 次代 青山幸直 |