願勝寺
願勝寺 | |
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所在地 | 徳島県美馬市美馬町願勝寺8 |
位置 | 北緯34度3分6.2秒 東経134度3分35.1秒 / 北緯34.051722度 東経134.059750度座標: 北緯34度3分6.2秒 東経134度3分35.1秒 / 北緯34.051722度 東経134.059750度 |
山号 | 宝壺山 |
宗派 | 真言宗御室派 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
正式名 | 宝壺山 願勝寺 |
札所等 | 新四国曼荼羅霊場68番札所 阿波西国三十三観音霊場30番札所。 |
文化財 | 山門:登録有形文化財 庭園:県指定名勝 |
法人番号 | 1480005005037 |
願勝寺(がんしょうじ)は、徳島県美馬市美馬町の寺町にある真言宗御室派の寺院である。山号は宝壺山。本尊は阿弥陀如来像。新四国曼荼羅霊場68番札所。
山門は国の登録有形文化財[1]。庭園は県指定名勝[2]。にし阿波お勧めビューポイント100選選定。阿波西国三十三観音霊場30番札所。
歴史
[編集]『郡里町史』に収録された「願勝寺歴代系譜」によれば、天智天皇の時代に、「忌部大祭主」であった玉満宿禰が、父・玉垣宿禰の弟であり、当時都にて元興寺の福亮法師の弟子となり斉明天皇の戒師であった福明律師(俗名・忌部五十麿)のために「維摩寺」を建立したのが始まりであるとされる[3]。
あるいは、奈良時代に忌部五十麿が祖父・岩木宿禰のために建立したともされる[4]。
その後、朱鳥元年(686年)に律師が亡くなったため、その名を残すために維摩寺を改めて福明寺とした[3]。
平安時代、崇徳上皇に仕えた阿波内侍が上皇の菩堤を弔うため都に建てた願勝寺を、母[注釈 1]の生国の阿波の維摩寺に移し願勝寺となる。
その後、歴代守護や藩主の庇護を受け郡内を代表する寺院となる。2009年(平成21年)1月8日に国の登録有形文化財に登録された山門(明治時代)、天竜寺と同一手法の滝組で、1998年(平成10年)8月11日に県の名勝に指定された願勝寺庭園(室町時代)、県内最古の博物館である美馬市立郷土博物館がある[5]。
「願勝寺歴代系譜」に見える住職
[編集]「願勝寺歴代系譜」に見える歴代の住職の名と系譜は以下の通りである(ただし、あくまで「歴代系譜」の中での話であり、事実であったかは不明)[3]。
- 二代・福淵僧都
- 麻殖忌部布刀淵の三男であり、幼名を淵麿といった。福明師の弟子となり、師名の福の字を継ぎ、名を福淵と改めた。
- 三代・大福上人
- 忌部大祭主玉淵宿禰の三男。
- 四代・実厳法師
- 外山忌部麻植正信の三男であり、大福上人の嫡弟〔ママ〕。忌部大祭主阿刀弗宿禰の命によって福生寺に転住した。
- 七代・智鑑
- 阿波郡秋月郷の人で、父は服部良麿。
- 八代・智光
- 忌部高光の弟。福明寺(後の願勝寺)の住職となった。天暦4年には高光の長子・定光が「唐戶丸」退治の際に賊の矢に当たり、久米山にて病死したという。
- 十代・徳光
- 忌部信光の二弟〔ママ〕。
- 十一代・随伝
- 十二代・了海上人
- 十四代・行智上人
- 麻植正径の次男。
- 十五代・行念上人
- 十六代・行真上人
- 忌部大祭主・麻殖親光の弟にして、北条遠江守在時の末子〔ママ〕とされる。
(中略)
- 二十一代・月心上人
- 忌部大祭主・麻殖利光の弟。
文化財
[編集]- 国の登録有形文化財
- 山門(明治時代)
- 徳島県指定名勝
- 願勝寺庭園(室町時代)
前後の札所
[編集]交通
[編集]- 徳島自動車道「美馬インターチェンジ」より車で約5分。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 願勝寺山門(文化庁文化遺産オンライン)
- ^ 徳島県の文化財(徳島県)
- ^ a b c 「願勝寺歴代系譜」郡里町史編集委員会編『郡里町史』(郡里町史編集委員会、1957年)
- ^ a b 「願勝寺縁起[1]」
- ^ “願勝寺”. 美馬市. 2019年5月27日閲覧。