高城胤吉

 
高城胤吉
時代 戦国時代室町時代後期)
生誕 文明16年(1484年)または文亀元年(1501年)?
死没 永禄8年3月12日1565年4月22日
改名 伝昭玄心
官位 下野守
主君 原氏千葉氏北条氏
氏族 高城氏
父母 父:高城胤忠
兄弟 胤吉
胤辰胤知
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高城 胤吉(たかぎ たねよし、文明16年(1484年)または文亀元年(1501年)? - 永禄8年3月12日1565年4月22日))は、戦国時代武将千葉氏の家臣。下総国小金城(現在の千葉県松戸市)主。父は高城胤忠とされる。妻は千葉勝胤の娘(月菴桂林尼)。子は高城胤辰

経歴

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出自については諸説あるが一般的には千葉氏の家老・原氏の分家で同氏の重臣とされる。25歳の時、小金に根木内城を築いたという[1]

永正14年(1517年)、原氏が足利義明に敗れて小弓城を失うと、胤吉は原氏の勢力下にあった小金栗ケ沢城に移って原胤清を迎え入れた。当初は原氏の代官的な地位にあったと推定されるが、後に小金を自分の本拠として大谷口城(小金城)を築城したとされる。その後は千葉昌胤の信任を受けてその妹を正室に迎え、千葉宗家や北条氏との関係を強めて義明や里見氏と対抗、2度の国府台合戦ではいずれも北条方について勝利に貢献する。

その結果、葛飾郡東部一帯を支配下に置き、天文17年(1548年)に中山法華経寺に対しても「守護不入」の証文を発給する[2]など地元領主としての基盤を固めた。高城氏歴代当主の胤辰・胤則の印が「胤吉」の名義が入った黒印であり、改刻してもなお家印として使用した事からも[3]、胤吉が高城氏発展の基礎を築いたという事実が裏付けられる。その一方で北条氏との両属的な関係が生じ、北条氏康からは相模国小園(現在の神奈川県厚木市)に所領を与えられ、また江戸城城代遠山綱景を通じて命令が出されるなど、北条氏の影響力が強まっていき、永禄2年(1559年)に成立した『小田原衆所領役帳』には高城氏は「他国衆」に組み入れられている。また、永禄3年(1560年)からの長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵の際に一時景虎に降伏し、翌永禄4年(1561年)に長尾氏(後の上杉氏)が作成した「関東幕注文」(『上杉家文書』)には、下総国の国衆として唯一「高城下野守 井けたニ九よう」と記されている[4]。しかし景虎が越後国に帰国すると、再び北条氏に属している。

永禄8年(1565年)に没し、広徳寺に葬られた[要出典]法号は伝昭玄心[要出典]。子供には高城氏を継いだ高城胤辰増上寺17世である照誉了学らがいる[要出典]

脚注

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  1. ^ 旧臣子孫によって正保年間にまとめられた「小金城主高城家之由来」(「高城氏由来書」)によればその築城年を永正5年(1508年)とするが、同書における根木内城築城の記事が足利義明小弓城攻略の記事よりも後ろに書かれている事から、これを義明の小弓御所入城後の大永5年(1525年)の誤りとする説もある。もっとも髙城氏関係の編纂記録には小金が元々は原氏の所領で髙城氏はその代官・城代であった事実が記されていないなどの問題点もあり、また近年の出土品の研究から根木内城築城自体を15世紀に遡らせる見解(胤吉築城否定説)もある
  2. ^ 証文の実物は残されていないが、天正17年(1589年)に胤吉の孫・胤則と法華経寺の間で段銭徴収を巡って訴訟となった際に、当時の下総を支配していた北条氏の評定衆は同年2月14日付で、(天文17年に出された)「源次郎祖父(胤則の祖父、すなわち高城胤吉)」の守護不入証文は有効であると裁決している(『法華経寺文書』)。
  3. ^ 川名登「親の印を用いた戦国武将」『日本歴史』460号、1986年。 [要ページ番号]
  4. ^ 千野原靖方 2009, p. 256.

参考文献

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  • 松下邦男『小金城主高城氏の研究』(私家版)、1971年。  国立国会図書館(同館書誌ID 000001210829)
  • 千野原靖方『戦国房総人名辞典』崙書房出版、2009年。ISBN 978-4-8455-1153-2 

関連項目

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